極彩色の悪夢・8

「ミシェル!」
音でもしそうな勢いで、アルトが背後を振り返る。
そこには、不機嫌そうな顔をしたまま車椅子にふんぞり返っているミハエルと、そのミハエルを連れて来たであろうルカが、こちらも不機嫌そうな顔で、ため息を零した。
「もういい加減に、お二人でよぉっく話しあって下さい。人の顔見るたびに、アルトはアルトはアルトは?って、煩くて仕方ないんですから」
やってられない、とでも言うように、ルカが肩をすくめる。
そんな様相をあっけに取られたように見ているアルトの腕を、クランが軽く叩く。
「まぁ、寝すぎて飽きてる幼馴染の話にも付き合ってやってくれ」
「好きで寝すぎてたわけじゃないぞ」
「分かった分かった。とにかくお膳立てはしてやったんだ。後は自分で何とかしろ。ルカ、行くぞ」
最初から打ち合わせでもしていたかのように、そんなやり取りをするミハエルとクランを、アルトが言葉も無く見つめている。
ルカは少々心配気にアルトを見やるは、何を言うでも無く、そのままペコリと頭を下げて、クランの後を追うように駆け出した。
取り残されて、お互いにけれど、言葉は直ぐには思い浮かばない。
今ここで歌えとでも言われた方が、まだ何かまともな言葉を口に出来るような気がする。
アルトのそんな心境までは分からずとも、アルトが困惑している事くらいは、その表情を見ればミハエルでなくとも分かると言うものだ。
どこか呆然としたままのアルトの姿は、おそらくは最後に記憶している姿よりも随分と、痩せた。
以前ならばそれを確かめるべく、すぐさま引き寄せて抱きしめていたであろう、己の腕を見やり、それから満足に動かぬ足を見下ろし、自嘲の溜息を零した。
「はっ、ざまぁねぇな。一人じゃろくに歩けないと来たもんだ」
萎えた筋肉では、体を支えきれない。
傷の完治までは、歩行訓練のリハビリも満足に出来ない状況だ。
それでも自力で足を動かす等の地道な運動は、始めている。
お陰で一人で立ち上がる事くらいは出来るようになった。
おとなしくしていろと、医師や看護士に怒鳴られ説教されるが、生憎と、悠長に回復など待って居られないのだ。
これ以上、待たせては居られない。
待っては、居られない。
自分が目覚めた今、アルトがもうここに、地上に、留まる理由など、存在しないのでは無いか。
人が聞けば、うぬぼれるなと一笑に付しそうな考えを、けれど、否定できないまま、自分は此処に来る事を選んだ。
幸いにして、アルトを知る者は、皆同じような事を、案じてもいたのだ。
空を、自由に飛べる事を追い求めるアルトが、地上に目を向けなくなる日が、来るのでは無いか。
そんな危機感を、いつまでたっても姿を見せぬアルトに覚えた。
ルカに、アルトが今日も軍に居る事を確認し、そうしてようやく生きた心地で息をつくのが日課など、情けないにも程がある。
確かめられるなら、自らの足で赴き、確認していた。
だが、外出許可すら満足に出ない状況で、住環境区で最も雑菌の多いと言われている軍のハンガーなどに、足を向けられる筈も無い。
「アルト、こっち来い」
「…」
「別にとって食いやしねぇよ。お前も分かってるように、出来るような体でも無いしな。」
「ミハエル…!」
「いいから、来いよ。けが人に、そこまで一人で動けって言うのか?」
この手の言葉に、アルトは弱い。
こちらの弱みを盾にして卑怯なような気もするが、今この場でアルトに逃亡されれば、自分には追いかける手立てなど無いのだ。
これ以上の、すれ違いなどごめんだ。
目覚めた瞬間、確かにそこに居たはずのアルトは、それ以降、全く姿を見せなくなった。
聞けば、自分が眠っている間は、終業後には毎日顔を見せていたと言う。
深夜であろうとも、何時であろうとも。
それが、どうして目覚めた途端に、会えなくなるのか。
アルト特有の、非常に厄介な思考回路で、意味の分からない結論を捻り出した結果に違い無いと、何とは無しに想像はしていたが、何が悲しくて、一番会いたい人間に避け続けられねばならない。
今は待て、もう少し待ってやれ。
そんな同僚たちの言葉に、悠長に聞いていられる期間は、とうに過ぎ去った。
2ヶ月だ。
目覚めて2週間ばかりは、忙しなさにそう焦りもしなかったが、さすがにこちらにも、限度と言うものがある。
野良猫がおそるおそる人に近づくように、怯えているかのように歩み寄ってくるアルトをミハエルはただ待つ。
触れられる距離の手前、躊躇うように立ち止まったアルトに、ミハエルは身を乗り出すようにして、その手を掴んだ。
強引に引き寄せるようにして、無理矢理そのまま立ち上がる。
ガシャン、と音を立てて、車椅子が転がった。
「おまっ…!?」
「っと…!」
人一人の体重を掛けられたアルトが、前につんのめるようによろめき、無理に立ち上がったミハエルの体もまた急激な動きについていけずに、よろめく。
互いが互いを支えるように、その体を抱きしめた。
みっともなくて、結構。
ずるくて、結構。
使えるものは、使う。
利用できるものは、利用する。
それくらいしなければ、この臆病な生き物は、自分の手からするりと逃げてしまうのだ。
「…ようやく、捕まえたぞ」
「お前っ、自分の状態を考え…!」
「この期に及んで、逃げようとしていたお前が悪い」
アルトの背中に回した腕はそのままに、体重を慎重に移動させ、どうにか自分の足で立っている状態へと持ち込む。
腹が立つ事に、たったこれだけの事で、息が上がる。
萎えた筋肉は、無様に震えるのだ。
「だからって、此処でまた怪我でもしたら、どうする気だ!病院を出る許可も下りていないし、お前はまだ絶対安静の筈だろう!」
「俺には会わない癖に、ドクターには会ってるわけか」
言えば、ぐっと言葉を詰まらせて、アルトが押し黙る。
違う。こんな事を言いたかったのでは無い。
泣かせたかったわけでも無い。
「…泣くなよ」
「泣いてない。」
互いの肩に顔を預ける形では、表情など見えはしない。
それでも、今、どんな表情をしているか、分からない筈が無かった。
「…さっさと会いに来ないから、こんな事くらいで動揺する羽目になるんだ。俺が、動かないとでも思っていたのか?」
問いかけに応えは無かった。
ミハエルは、小さく息をつくと、アルトの肩を掴みながら、身を少し離した。
伏せられたままの、アルトの顔を覗き込む。
まともに、ようやく視線が交わる。
同時に、アルトの瞳の奥に、怯えが走った。
怯える必要は無いのだと、ミハエルは言葉を紡ぐ。
「だいたい、お前は、余計な事を考えすぎなんだよ。大義名分?戦争に大義名分はつきもんだ。殺し合いの正当性を、どこかで見つけて、皆、自分に折り合いいつけてんだよ。家族の仇、友の仇。世界のため、平和のため。報われるわけでも無いソレに縋って、自分の心に巣食う恐怖を騙して、戦ってる。誰かを守りたいとか、そんなのはどっかに必ずあるんだろうけどな、んな冷静なこと考えてられる程、戦争ってのは、生易しいもんじゃない」
最前線で戦う者ほど、逼迫した死との恐怖を、どうにか平らげるのに必死だ。
「人間は弱いんだ。与えられた役をこなしてるだけだって言うけどな、それだって、誰もが出来るわけじゃない。英雄だって崇められて、それに耐え切れずに逃げ出したヤツが、歴史上にどれくらい居ると思ってる」
英雄の末路は、悲惨なものが多い。
英雄が英雄のまま、生涯を閉じる事は、どれほど希少な事であるか。
己の立場に驕り慢心し、人はその身を、自ら破滅へと歩ませる。
だが、アルトは違う。
単なる、身贔屓のような意見では無い。
芸事の厳しい世界で育ったせいもあるのだろう。
生涯、学び続けねばならぬ環境が当たり前だったせいか、決してアルトを必要以上に慢心させなどはしない。
「お前が、今までどうしてたのかなんて、聞かなくても分かるよ。お前は、いつもみたいに要領悪く、利用されて、振り回されて、上手く断りきれずに睡眠時間削って動きまわって、ルカに怒られて、隊長に頭小突かれて、シェリルやランカちゃんに説教されて…自己嫌悪で一人でこっそり泣いて」
アルトの眦からこぼれそうな涙を、指で先にぬぐって、ミハエルはようやく触れられたアルトの頬を両手で包む。
「全部、分かってるさ。お前がどれだけ必死に、ココに居る連中を守ろうとしてたかなんて、誰に説明されなくても、充分に分かる。俺がお前を変わって無いって非難するわけ無いだろ。お前は良い意味で変わって無いんだ」
人も、街も、心の在り様も、変わりすぎた。
目覚めた己の目に映った世界は、あまりにも変わり過ぎていて。
一体、これは何の悪夢かと思った。
途中で戦線を離脱した己には、フロンティアの灰色の惨状と、見知らぬ緑溢れる大地のアンバランスなまでの色彩に、目が追いつかなかった。
そんな中、何気なく見ていたニュース番組で、式典に引っ張り出されるアルトの、ぎこちない笑みを見た。
向けられるリポーターのマイクとカメラのフラッシュに、惑う瞳を見た。
だから、あぁ、そうか。と。
そんな風に納得したのだ。
変わっていない。アルトは変わっていないのだ。
英雄なんて、どこにも居ない。
英雄を押し付けられて、そんな自分に戸惑っているアルトが居るだけだ。
自分の知る、何もかもに不器用なアルトが、変わらずに、ただそこに居た。
「……俺は、でも」
「お前は、他の誰にも出来はしない役目を、こなして来た。他の誰より、胸はっていいんだよお前は。だから………そんなくだらない理由で、勝手に俺から離れるな」
「ミシェル…」
肩口に額を預けるようにして、アルトが顔を伏せる。
震える手が、己が背中にまわりを幼子のように、握り締めた。
掠れるように小さな声で、名を呼ぶアルトに応じるように、ミハエルはその背中を宥めるように、ゆっくりと叩いた。

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