極彩色の悪夢・9

規則正しく、ただ宥めるだけに背を辿る手は、酷く優しい。
溢れた涙と感情が、ようやくのように落ちついたアルトに、そんな事を思い巡らす余裕も生まれて来る。
特に涙脆かったわけでは無いはずなのだが、どうしてか、ミハエルの前ではよく泣く羽目になる。
厄介なことに、ミハエルは自分が泣いている時ほど、何も言わないのだ。
からかいも何もせず、ただそこに居る。
泣き終わっても、何も言わない。
当たり障りの無い言葉を口にして、それ以上の事には触れて来ない。
ただ、自分泣くように、仕向けるだけなのだ。
泣けば良いのだと、無条件に許されているその状況に、自分は依存してしまっているのかも知れない。
アルトが涙を収めるタイミングを分かっていたかのように、ミハエルは背中を宥めていた手を止めた。
「髪、また伸びたな」
「そうか?」
不思議そうに首を捻るアルトだが、結わう位置の変わらぬそれの、毛先が掠める位置は以前よりも随分と低くなった。
背中に落ちる髪を掬うようにして、手元へと持ってくる。
扱いも無造作だと言うのに、アルトの髪はいつも不思議と、誰かが専門に手入れでもしているのかと思う程度には、傷みが無い。
するりと指先を通り抜けるそれを、逃さぬように、けれど、柔らかく握り締める。
この手の中に、あるものが、今さらながらに全て、奇跡に思える。
生きている事も、何もかも。
心が、震える。
血が、巡る。
生きている事の、ただただ奇跡を、噛み締める。
生きて触れられる事の運命を、ただ切に感謝する。
その運命を繋いだアルトを、どうしようも無く、愛しく思う。
「あぁちくしょう…」
「ミシェル?」
唐突なミハエルの言葉に、アルトがきょとんと目を瞠る。
「お前を抱けない」
「…っ!?」
あからさまな程に、頬を染めて動揺するアルトなど、今のミハエルにとっては己を煽る存在以外の何者でも無い。
この状況、この空間。
「くそっ、リハビリなんて悠長に待ってられるか!」
「ミシェル?」
微妙に、何かまずい、と言う空気を察したアルトが、ミハエルの名を呼ぶ。
だが、そんなアルトに向かって、ミハエルがにぃっと、さながら悪巧みをしています、とでも言うような笑みを浮かべた。
「姫が動いてくれんなら…いけるな」
「ば、馬鹿かお前はっ!」
「どうせ、勝手に抜け出したのがばれるのは時間の問題だろうし、暫く監禁でもされんのは確実だ。チャンスは今しか無い。分かるよな?」
分からない。
いや意味は分かるが、確認されている事に、理解を示す事などできるはずが無い。
分かってしまっては、まずい。
ぶんぶんと首を振って、否定するものの、ミハエルを突き飛ばすに突き飛ばせず、アルトが微かな抵抗を示すも、本気で突き飛ばすならいざ知らずこんなときばかりは、無駄に『軍人』生活の長いミハエルの方に、軍配が上がる。
人体の、どこをどう押さえれば良いのかを、心得すぎているのだ。
「だからっ!はなっ…」
紡ぐべき言葉を揶揄するように、アルトの耳朶を、舌が辿る。
びくりと震えるアルトに、やはり変わっていないと、下世話な思考を巡らせた罰かのように、ミハエルの背中が、別の2人の腕によって、ぐいっと後方にひっぱられる。
「…っい!」
ドサリと、いつの間にか戻されていた車椅子に、腰を落とす。
「はいはーい、そこまでですよー」
「ル、ルカ!?」
「はい、さっきぶりですね先輩」
にこにこと満面の笑みで、そんな言葉をルカが返す。
一体、どこから聞いていたのだの、いやそもそも帰ったのでは無いのかだの、アルトの脳内を似たり寄ったりの疑問が飛びかう。
そんなアルトの混乱に、ただただ笑みを返すだけで、ルカは何も言わない。
「全く、油断も隙も無いなお主は」
「大尉…」
腕を組んだクランが、貫禄充分な視線でもって、ミハエルを睨んでいる。
そこに滲む、呆れは隠しようも無い。
やおら、その視線がスライドし、アルトへと据えられた。
「だいたいアルトも、ぼーっとしているから、こやつが調子に乗るのだぞ。今さら怪我の一つや二つ増えた所で、何が変わるわけでも無い。思い切って、蹴り飛ばすなりして逃げんか」
「クラン、怪我人に対して、随分な言い様だな。」
「我が身の怪我を盾に迫るような男に、何の遠慮がいる」
幼馴染同士、遠慮も何も無い物言いで、応酬される言葉に、アルトが口を挟む隙も何も無い。
「はいはい、喧嘩はそこまで。そろそろ病院に戻らないと、ミシェル先輩、本気で軟禁でもされますよ。病院には巡回の時間って言うものが、ちゃんとあるんですから」
「一晩くらい見逃せ」
「さっさと養生して、現場復帰する方を優先して下さいよ。目的は達成できたでしょう」
第一の目的は、アルトを自分の傍に引き戻す事。
それは叶っただろうと、ルカとクランの両方から向けられる視線に、ミハエルも苦笑いを返す。
そう目的は、一先ずの達成を見た。
より強固な、即物的な結果を手にしたいと思って、何の咎があると言うのだろう。
「そんな顔してもダメですよ。と言うわけで、大尉、強制送還お願いします」
「任せておけ」
万が一、病院側に発見されても、身内に近いクランが散歩に付き合っていたとでも言えば、まだ言い訳も立つ。
「先輩も、戻りましょう。明日、また飛ぶんですよね?」
「あぁ」
頷くアルトに、ミハエルが視線を上げる。
「姫」
「…戻ったら、お前の所に行く」
「了解」
ミハエルが上出来だとでも言うように、一つ深い笑みを浮かべる。
ルカとクランは軽く視線を交わし、双方やれやれと言った表情で、次の行動に移った。
「ではな、アルト、ルカ!」
「おい、こらクラン!」
問答無用で、車椅子を反転させて、クランがミハエルを連行して行く。
「騒ぐな、馬鹿者」
「お前には、別れを気遣うとかの思いやりは無いのか」
「お前が眠ってる間に、使い果たしたわ」
騒ぐなといいながら、騒々しく去って行く二人を、アルトとルカは無言で見送る。
あのコンビだけは、つくづく凄い。
ブランク何のそのだ。
「…と言う事で、僕たちも行きましょうか」
促すルカの言葉に我に返り、アルトが頷く。
それに重なるように、耳慣れたエンジンの駆動音が、空を駆けて来る。
風を引き連れた轟、と言う音に釣られるように、何の気はなしに見上げた夜空を、VFが掠めるように飛んで行った。
鮮烈な一閃が、視界を過ぎる。
闇に散らばる星々が瞬き、白と黒のモノクロが、鮮やかに輝く。
目が、醒めるような、一瞬。
「あ……」

ようやく。
ようやく。
あの日からずっと続いていた『悪夢』が、終わった気がする。
毒々しいまでに色づいた、醒める事の無い、悪夢が。

「先輩?どうかしましたか?」
「いや、何でも無い」
怪訝そうな表情のルカに、緩やかに首を一つ振ると、アルトもまた静かに歩き出した。


完結