極彩色の悪夢・2

「とうとう隊長とあのキャサリン・グラス中尉が、付き合い始めたみたいだぞ」
答える声は無い。
そんな事は、分かっている。
それでも、言葉は尽きない。
何か。
何か。
瞼でも、指先でも、何かが動きはしないか。
昨日とは少しでも違う何かが起こりはしないか。
そんな期待を抱かずには居られない。
「お前のくだらない予想だけは、本当、当たるよな」
ありゃ焼けぼっくいに火が、って典型的なタイプだろ。
したり顔で語るミハエルに、ふーんと気の無い相槌を打っていたのは、いつの話だっただろうか。
記憶はどんどん、上書きされて行く。
過去を過去へと押しやり、現在に繋がりの失せた記憶は、ぽつんと置き去りにされてしまう。
その日がいつだったのか。
その直前には何を話していたのか。
どんな風に、笑っていたのか。
どんな声で、語っていたのか。
曖昧になって行くそれを、繋ぎとめる術を、自分は持ちはしない。
忘れてしまう。
忘れて行ってしまう。
「お前、寝すぎなんだよ。人には散々、寝汚いとか、言っておいてさ。お前の、方が、よっぽど…っ」
言葉が、消える。
額をベッドに預けて、震える息を吐き出した。
ミハエルと変わらぬ視点から見上げた計器は音すら立てずに、静かにその鼓動だけを伝えている。
あまりにも静か過ぎて、ぞっとする。
これが止まった事すら、誰にも気づかれはしないのでは無いかと、そんな無駄な恐怖心すら抱く。
生きている事を確かめたくて、手を伸ばし。
けれど。
触れた途端に、命が、途切れてしまったら、そう思って。
それが怖くて、いつも触れる事も出来ない。
死が、どれほど冷たく淋しいものか、知っているから。
こんな風に横たわったまま目を閉じて、二度と、目覚めなかった人を知って居るから。
臆病な手は、中途半端に宙を彷徨い、結局、真っ白なシーツを握り締めるだけで終わってしまう。
縋るように、規則正しく動く計器を見つめ、変わらず動く数値から視線を引き剥がすように立ち上がる。
「また、明日な。ミシェル」
応える声の無い言葉は、病室に小さく反響して、吸い込まれるようにして消えた。
しん、と静まり返った廊下を、アルトは極力足音を立てぬように、ゆっくりと歩く。
時刻は既に夜の8時を回り、この惑星はすっかりと夜闇に包まれている。
眠り続けるミハエルを見舞うのは、最早アルトの日課だ。
何があろうとも、それだけは欠かさない。
同じような人間が多いのか、病院を見舞う者の顔ぶれは同じで、言葉こそ交わしはしないものの、すれ違う際に会釈を交わす程度の顔馴染みが出来上がっても居る。
誰が誰を見舞っているのか、そんな事には興味は欠片もない。
ただ、同じような心境でここに通い詰める者同士の、奇妙なまでの連帯感が、ひっそりとした病棟を覆っている。
本来ならば、病院施設は入院患者を見舞う時間も限られているのだが、この混乱の最中、そんな瑣末な事をわざわざ注意しに来る医療スタッフは居ない。
忙しい合間を縫って、目覚めぬ家族や、入院している友人を見舞う者が殆どの中、病院側もそんな無情な措置を取るわけにも行かないのだろう。
アルトとて、時間を制限されれば、ミハエルに会えるのは、いつになるか分かったものでは無い。
そして、自分の知らぬ間に、二度とミハエルに会えなくなる、そんな可能性とて、有り得るのだ。
考えるだけで、背筋が震える。
今でさえ、目覚めぬミハエルを前に、自分が病室を出た直後に、何か起こるのでは無いのかと、怯えてすら居るのに。
あの日から、ずっと眠り続けているミハエルに、自分は怯えている。
今現在、こうして生きている事すら奇跡だと言われ、このまま、目が醒めない事もありうるからと、その覚悟もしておくようにと医者には言われた。
それ程に、ミハエルの負った傷は重傷だった。
あのまま宇宙空間に放り出されていたら、間違いなく死んでいただろう。
いや、あのヴァジュラの一撃で、既にして自分たちはミハエルの死を、現実のものとして、避けようも無いものとして、見つめていたのだ。
それでも、生きていたのだ。
途切れそうな小さな吐息を縁に、だから自分はルカと共にミハエルを抱えて走った。
急患で溢れ返る、急場拵えのテントにミハエルを預け、そして、空へと飛び上がった。
何が何でも、フロンティアを守らなければならない場所なのだと、あの時ほど痛切に感じた事は無い。
だから。
自分もルカもクランも。
フロンティアを、離れられなかった。
守るべき者たちが居る場所を、後には出来なかったのだ。
そうして、ようやくのように全てを終えて、自分達は、この星へとたどり着いた。
廃墟と言って差し支えない光景の広がるフロンティアと対照的に、此処はあまりに穏やかで、美しすぎた。
朝が来て、夜が来る。
日が昇り、日が沈む。
空は高く青く、大地は花が咲き乱れ、かつて地球に生息していた昆虫と良く似た生物、つまり蝶だのトンボだの蜂だのが、気ままに飛ぶ。
捕獲にいたって居ないので、はっきりとした事は言えないが、鳥類と思しき生き物も何種類か見かけ、ヴァジュラの幼生が興味深そうに傍らを並行して飛んだりもする。
海も湖も川も山もある。
吹く風は穏やかで、重力に違和感もない。
青い空と白い雲、冴え冴えとした蒼い海、柔らかな緑の覆う大地に、濃淡様々な彩りの花々。
沈む夕日は視界を橙色に染め、真っ黒の夜空には白く光る星々が瞬く。
世界は、残酷な程に色彩に満ちているのに。
まるで、この世界こそが悪い夢であるかのように、ミハエルはあの日からずっと目覚めない。

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