あらゆる理屈を打ち負かす一滴の涙 前編

しまった、と。
後から思った。
後悔とは、まさにこう言う事を意味するのだろう。

ヴァジュラの巣を破壊し、可能ならばサンプルを回収すると言う作戦から2日。
スクランブルも掛かることなく朝から学校に行って授業を受けていれば、今、フロンティアが面している危機など、まるで嘘のような気すらして来る。
それでも、全ては現実だ。
そして、その貴重な平和で平凡な現実に、自分はふと、引っ掛かりを覚えたのだ。
アルトとは同室である事は勿論、学校でも顔を合わす。
他愛ない言葉を交わし、からかえば怒って。
全くいつもの日常のようでありながら、そこに奇妙な齟齬を感じたのは、アルトがふとした瞬間に、口を噤む様を見たからだ。
何かを、言おうとしたのか。
こちらを見て、けれど、アルトは口を噤み、視線を外し黙って空を仰ぐ。
2000mを超えて飛ぶ事を焦がれていたあの頃のように。
その様相の原因を探ろうとした所で、探るまでも無く直前の自分達の騒動を思い返し、己の失態に気づいたと言った所だ。
的確に、アルトの急所を突いた言葉を、自分は口にしたのだ。
いつかは問い質すつもりだった言葉だ。
だが、あんな風には言うつもりは無かった。
『家から逃げて、父親から逃げて、趣味で戦争やってるお姫様が!』
はっきりと覚えているだけに、猶の事、後ろめたい。
アルト己の誤射そのものを、割り切って片付けているから、更にだ。
「まだまだ青いなぁ俺も」
「当たり前だ馬鹿者」
「クラン」
独り言に返された言葉に、ミハエルがゆっくりと振り返れば、マイクローン化した小柄な体躯のままのクランが、ミハエルの真正面までずかずかと歩いて来る。
無言のままミハエルの横に並ぶと、タラップから、ミハエルのVF−25Gを見上げ、その横のアルトのVF-25を見やる。
ミハエルが誤射した箇所も、その後の戦闘の際の傷も、既に綺麗に修復されており、機体からは何があったのかなど察する事も出来ない。
上官達は、今回の誤射騒動を、単なる戦闘中の不慮の事故で片付けた。
始末書は隊長であるオズマの命令で、互いに書かされたようだが、それだけだ。
軍隊などそもそもが、荒事で構成されている場所だ。
健全な青少年が、殴り合いの喧嘩をしようが、取っ組み合いの肉弾戦をしようが、戦闘に支障を来たすような大怪我に繋がらない限りは放置である。
ある意味寛容であり、ある意味無責任でもあるが、事は尉官レベルの些事に過ぎないのだから、順当な処理だろう。
少なくとも大尉の官位を持つクランから見れば、納得できる結末だ。
ただしそれは、双方共に、晴れやかな顔をしているならば、だ。
「お前の事を好きか、と聞いたら、好きだと言っていたぞ。全く聞いてるこっちがこっ恥ずかしい」
呆れた口調で言えば、ミハエルは少しだけ目を見開くが、それ以上の感情が表に出さずに、どこかわざとらしい口調で言い返して来る。
「姉さんの事、姫に言っただろ。このお節介め」
「ボコボコに殴られた理由すら分からぬのは、あんまりだろう。相手に知られたくない事なら、突かれても動揺しないくらいの精神でいろ。今回はそれが出来なかったお前のミスだ。だからアルトに答えをくれてやった。その後の判断は、アルト自身のものだ。私は何も言っていない」
クランは深夜に、此処で交わした会話を思い出す。
会話とは言っても、己が一方的にアルトに語って聞かせた昔話だ。
ジェシカの事を聞き終えたアルトは、暫し愕然とし、それから苛立たしそうにガツンとタラップの手すりを蹴り付けた。
怒りの矛先は、おそらくは不用意な発言をした己自身へだろう。
言葉が、いかにして凶器となるかを知って居る者の、反応だ。
「分かりにくいが、あやつも繊細な性格だな。」
「…知ってるよ」
「だったら、ちゃんとフォローして来い。何をやったのかは知らんが、あれから、沈んでるぞ」
「よく見てるな」
気づいている者など、せいぜいが自分くらいだろうと思っていた。
「偏屈な幼馴染がようやくまともに作った『友達』なんだ。気になって当然だろう」
クランからして見れば、アルトは充分に興味対象である。
両親を早くになくした事は、ミハエルを少しばかり孤独にはしたが、何も彼が淋しさに泣きくれる日々を送ったわけでは無い。
ジェシカはミハエルに充分な愛情を注いでいたし、自分は同じ祖先の血を引くミハエルと仲の良い友人であった自覚はある。
本当にミハエルを孤独にしたのは、姉の自殺だろう。
戦闘員である姉が、戦場で死する可能性がある事は、ミハエルもわかっていた。
それでも、決して自分を置いては行かないと思っていた姉の『自殺』と、その死に関する新統合軍の調査と言う名目での、唯一の肉親を亡くしたミハエルに対するぶしつけな質問や遺品の押収に面してから、ミハエルは他人を根本的に信用しなくなった。
姉の死にまつわる情報を求めて、大人しやかな少年は口巧者になり、己の容貌が時には武器にもなる事を知れば次第に本心を読み取らせぬようになり、他人との間に明確なラインを引いて見せたのだ。
今では姉の死など、微塵も感じさせぬ顔で笑い、人を食った物言いをする。
本心では、おそらく今でもジェシカの死に対して疑問を覚え、新統合軍そのものにも変わらず疑惑の目を向けながら。
「偏屈とは酷いな」
「偏屈だろうが。全く、昔はあんなに素直でかわいらしかったのにな」
「よせよ。ガキの頃の話は」
昔話を持ち出されても、ミハエルには有利なものなど何一つ無い。
実質、クランにべったりだったのだ。
逃げるように踵を返した所で、ミハエルは足を止めてもう一度クランを振り返った。
「クラン」
「何だ」
ぶっきらぼうな口調でこちらを見返す幼馴染に、ミハエルは言う。
「悪かった。心配かけた。それから、酷い事も言った。すまない」
「…次は無い。セクハラで訴えるからな。そうだなマイクロン化した状態で泣きながら訴えてみるか」
「…幼馴染にその仕打ちは無いだろ。とにかく、悪かったよ反省してる」
己の放った言葉は、そう言う意味なのだ。
相手を侮辱し、尊厳を踏み躙るに等しい言葉だ。
気丈な幼馴染を、泣かせるに足る一言だ。
自覚し、ミハエルはもう一度、謝罪の言葉を連ねた。
「ごめん」
「幼馴染のよしみで許してやる。全く、幼馴染だからこの程度で済むんだぞ。何を言ったのかは知らんが、分かったなら、とっとと行って謝って来い」
一方的にこちらが悪いと決め付けるクランの言動ではあるが、言った当人が後悔しているのだから、間違った指摘でもない。
しっしっと、猫の子を追い払うように手を振るクランに、ミハエルは苦笑いを浮かべると、今度こそ振り返らずに歩き出した。


後編