あらゆる理屈を打ち負かす一滴の涙 後編

逃げた。
そう言う風に捉えられているのは、分かっている。
言い訳などするつもりは無い。
口でいくら逃げたのでは無いと言った所で、自分は背負うべきものから目を背けて、それを解決もしないままに、戦争に加わっているのだ。
髪を切れぬのも、また自分の未練だと分かっている。
これが無くなれば、身軽になるのだと分かっていても切れないのは、いつでもそこに戻れる、そんな自分を用意していたいだけだからなのかも知れない。
「切るか…」
格納庫でRVF-25に繋いだ端末を器用にカタカタと叩いていたルカは、唐突な呟きを拾った瞬間、思わず顔を上げていた。
「え?」
「いや、髪、切ろうかなって」
頭の後ろで揺れる髪をつまんで目の前まで引っ張ってきたアルトが、それをぼんやりと見つめながら呟いている。
指から離れたそれが、元の位置にしゃらりと戻るまでを、ただ見送ってしまったルカだが慌てて、端末を放り出してアルトに詰め寄った。
「なななな何でですか!?」
「いや、男だし。長いのもどうかなーって。これがあるから、皆、期待するんだろうし」
コレと、どこか困ったように自分の髪を表するアルトに、ルカはその顔を心配そうに見つめた。
「アルト先輩?何か、ありました?」
ルカの視線から、するりと視線を外して、アルトが自分のVF-25を見やって言う。
「俺は、たぶんずるいんだよ。逃げ回ってるのも分かってる。でもさ、答えが見つからないから、向き合えもしない。嫌いじゃない、憎いわけじゃないんだ。でも、あそこじゃ、俺、もう上手く笑えなくてさ。苦しいのが嫌だから離れようと思った。まぁ世間一般では、逃げ出したって言うんだろうな。だから、確かにアイツの言う事も、間違っちゃいないんだよ。皆がそう思ってるのも、知ってるしな」
先日の出撃の際、アルトとミハエルが軽い口論めいたものから、誤射騒動にまで発展した一連の顛末には、ルカも多分に関わっている。
フレンドリー・ファイアー。
大昔の地球の軍隊が使い出した言葉だそうだが、遠く地球を離れた今でも、軍隊用語として引き継がれている。
友軍からの攻撃。
即ち誤射、だ。
その直前のアルトとミハエルの会話は、ルカの耳にも届いていた。
それでも、ミハエルとアルトがどう言った事を踏まえて決着をつけたのかまでは知らないが、とにかく二人は以前よりも格段に近づいたのだと、そうルカは思っていたのだ。
たった今。
この瞬間まで。
「アルト先輩。ミシェル先輩のあの時の言葉は本気じゃないですよ。ほら、その前に、アルト先輩とちょっと口喧嘩してたから、その延長ですって」
「売り言葉に買い言葉にしちゃ、出来すぎてる。いいんだ、それは別に。俺も上手く説明できないしな」
「アルト先輩…」
『誤射』に関しては、綺麗すっぱり片付いたのだ。
片付かなかったのは、その少し前の、挑発めいたやり取り。
互いに相手を怒らせる為に放たれた言葉は、ミハエルの中では上手く一つに繋がって着地点を見つけたが、アルトの中では解決の糸口も無いままに宙に浮いているのだろう。
だから、髪を切る、などと言う言葉が飛び出す。
歌舞伎の為に伸ばしていた髪を。
アルトの実家との確執は根深い。
普段は何気ない顔をしていても、それを気に病んでいるのは、アルトとそれなりに付き合いのある人間ならば知っている事で、冗談でアルトの実家の事を口にはしても、真剣にそれを問いただす者は誰も居ない。
何があって、どうして、アルトが空を選んだのかを。
あまりに特殊な環境すぎて、外から単純に推し量るには、無理がありすぎる。
伝統と格式。と、口で簡単には言えても、それが実際、どの程度の重みを持っているのかなど、あの家で生きて来たアルトにしか分からない話だ。
「…先輩、髪、本当に切っちゃうんですか?」
「何でお前がそんな気にするんだよ。一生伸びないわけじゃないんだし、よく考えたら男が長いのも変だしな」
「だって、僕、アルト先輩の髪、好きなのに」
「…これを?」
「僕だけじゃないですよ。ミシェル先輩だって、気に入ってるんですよ」
あの本心を垣間見せぬミハエルが、いっそ分かりやすいまでに気に入っているのが、アルトと言う存在だ。
どこを、と部分的に区切る必要は無い。
ミハエルは、アルトと言う存在を構成するもの全てを気に入っている。
それこそ、アルトの実家から髪の毛一本に至るまでの、何もかもをだ。
「切ったら、姫って呼べなくなるからだろ。あぁそうか。これ切ったら、そう言うメリットもあるか」
「髪の毛切っても、アルト先輩は美人なんですから関係ないですよ!」
我ながら何を叫んでいるのかも良く分からなくなって来てはいたが、それでもルカは叫ばずには居られない。
言いたい事は、こんな事じゃないのに、咄嗟に言葉を思いつかない自分がもどかしい。
「こらルカ。そんなこと言ったら、姫が意固地になって髪の毛切っちまうだろ」
「ミシェル先輩!」
この八方ふさがりのような状況を打破できる人物の登場に、ルカの顔が輝く。
自分ではアルトの意思を覆すことなど、到底無理だ。ミハエルに場を譲るように、ルカはアルトからそっと距離を取る。
なぜだか今のアルトには、そう言った慎重さが必要な気がしたのだ。
「姫。髪切るって?何でまた?」
「あぁ。いい加減、うっとうしいしな」
いつもの揶揄めいた口調のミハエルに、アルトもまた何事も無いかのように、さらりと口にする。
だがそんなアルトに、ミハエルが視線を眇め、どこか責めるように言う。
「外見だけ変えたって、意味無いだろ?そう言うの、意味ないって姫が一番よく分かってるんじゃないの」
「…それでも、変わるものもあるだろ。誰が見ても分かりやすいしな」
「姫」
「何だよ。髪切るくらいで大騒ぎしすぎだって。あーあー黙って切れば良かったな」
明るいアルトの声が、奇妙に浮いて聞こえる。
すっと立ち上がって、そのまま去ろうとするアルトの腕を、ミハエルは掴んだ。
向かい合って会話をしている筈なのに、奇妙なまでの齟齬が生じているのは瞭然としていた。
「今まで別に邪魔になってなかっただろ?」
「…VFに乗るのに邪魔だからじゃない。俺が生きてくのに邪魔なんだ。コレがあるから、お前だって初対面で俺が、早乙女の人間だって気づいたんだろ?」
初めて会った時、アルトはこの学校の制服を着ていて、舞台で見たアルトのように和装をして化粧をして髪を結い上げていた分けではなかった。
それでも背中の半ばで揺れる髪と、流れるような仕草に、己はアルトをあの舞台に居た演者だと、そう確信したのだ。
そのことを否定する気は無い。
こちらの沈黙をどう受け取ったのか、アルトが言葉を吐き出す。
「親に学費から全部、世話になってる身分なのに、無様に逃げ回ってそのくせ逃げ道だけは残して、やりたい事やって浮かれてるどうしようも無い人間なんだよ。そう言う事だろ?そういう風に見えるんだろ?」
怒鳴っているわけでも無い。
ただ、既にして分かっている事の確認を取るように、問いを向けるアルトに、ミハエルは思いの他、大きかった己の失態を詰る。
今、アルトが口にしているのは、自分で自分を傷つける言葉だ。
言われたくない、そう言う風に見られたくない己を、自分で言葉にして、諦めている。
自分はそう言うものなのだと。
「アルト」
「逃げだしてないって言ったって、誰も聞きやしない。いいんだよ。お前の言ったことは、皆が、思ってることだ。お陰で目が覚めたよ。もっと早くこうすりゃ良かったんだ。」
「アルト、悪かった」
「否定はできても、誰かを納得なんてさせらない。俺の、言葉じゃ足りない。見た目からでも変えて、証明してかないと、俺は、空にも行けない」
「アルト!」
捨てられないから、苦しい。
生まれた家も何もかもを、心底憎めたら、それで良かったのかも知れない。
けれど、生まれ育った場所だ。
疎んじても、どれ程に相容れぬと感じても、確かに己の根幹を成すものでもあるのだ。
今の自分と全てを切り離せないから、余計に苦しい。
「アルト」
「…逃げられるなら、逃げてるっ…」
全部を無かった事に出来るなら、とっくの昔に。
かすれて途切れた言葉の代わりのように。
瞬きすら忘れたのか、感情のままに立ちすくんだままのアルトの眦から、涙が一粒だけ、零れ落ちる。
ミハエルは、たまらずアルトを抱き寄せた。
「ごめんな」
告げられるのは、こんな言葉だけでしか無い。
いらぬ口は賢しらに回ると言うのに、肝心な時に必要な言葉は、恐ろしく単純で陳腐でありふれていて、酷く薄っぺらなものに聞こえる。
アルトの涙に見合う言葉など、どこにもありはしないのだ。
それほどまでに、自分がアルトへと叩きつけた言葉は、大きい。
己の過去をアルトが知らなかったように、己もまたアルトの過去の全てを知っているわけではない。
だが、不器用ながらも訥々と口にするアルトの『昔』を自分は聞く権利を与えられても居たのだ。
その自分が、他人よりも多くは知っている筈のアルトの今を、否定したのだ。
一番近しい筈の人間が口にしたその評価に、アルトの心は揺らぎに揺らいだのだろう。
それでも、アルトは己に撃てと言った。
背中を向けて、叫んだ。
全身で表現された信頼の裏で、アルトはこんな風に苦悩していたと言うのに。
謝る以外に、己が何を出来るというのだろう。
肩口に押し当てたアルトの頭を抱えたまま、ミハエルはささやくように言う。
「泣かないでくれ」
「…」
「髪も切るな。俺の言葉なんかで、姫が揺らぐ必要は無い。お前が俺に姉さんを越えろって言ったんだ。お前も、越えろ。今あるお前自身のままで、過去を越えろ。越えて、お前のまま、自由に飛べば良い。背中は俺が守るから、お前は振り返らなくて良いんだ」
アルトを捕らえようとするものを、自分は残らず撃ち落す。
それくらい出来なくて、どうする。
「それじゃ俺が、前しか見てない馬鹿みたいだろ。だいたい馬鹿なのはお前だ」
長い沈黙の果てに、ようやくのように返された悪態に、ミハエルは力の抜けた笑みを零す。
号泣するでも無い。
わめき散らされるわけでも無い。
吐き出された言葉は自身の感情が吐露されただけに過ぎず、それすらも途絶えれば、ミハエルにはどうする事も出来ないのだ。
だから、赦しのように紡がれた言葉に、笑う。
誰が一番馬鹿なのかなんて、分かっている。
「頭脳戦はルカに任せりゃいいんだ。余計なものは俺が抑える。お前は飛んで行けば良い」
「俺が馬鹿って部分を、否定しろよ」
「賢い姫なんて、姫じゃない」
身じろぐアルトに、腕に篭めていた力を離せば、顔を上げて不服そうな表情を浮かべている。
眦に残る雫の名残に唇を寄せると、ミハエルはそれを舐め取った。
「………っ!」
途端、激昂に顔を赤くするアルトに、ミハエルは笑う。
「そうやって、姫はいつも通りに、怒って笑ってりゃ良い。」
「こんの馬鹿!」
そのまま歩き去ろうとするアルトの髪の端を、ミハエルははっしと掴んだ。
「姫」
「お前、さっきから、いきなり…!」
「髪、切るなよ。切ったら、おしおきだからな」
「…………」
微妙に頬を引き攣らせてるアルトが何を想像したかは知らないが、この際、それを問い詰めるのは無しにする。
「それにルカの言った事も当たってるぞ」
「あ?」
「髪の長い短いくらいで、お前の造作に変化なんて無いし、お前に定着したあだ名も消えない。それにだ、航宙科の連中は、お前のパイロットとしての才能を充分に分かってるよ」
舞台に立つアルトよりも、空を飛ぶアルトの姿の方が、馴染みが深いのだ。
同じ科の生徒は、どう言った経緯でアルトが、パイロット志望になったのかは知らないが、現段階で次席と言う成績は誰にも文句を言われない代物だ。
それこそ、外見など誰も気にしていない。
彼らの知るアルトとは、今の姿のアルトでしか無い。今のままのアルトを、評価しているのだ。
意味は通じたのか、微妙に視線を泳がせたアルトが、そこではたと思い至ったように、瞬きをする。
「ルカは?」
「さぁな」
大方、自分の役目は此処までとばかりに、立ち去ってくれたのだろう。
相変わらず抜群な気の利かせ方をしてくれる後輩に、ミハエルは今度食事でも奢るかと決め、アルトの肩を叩いた。
「部屋、戻ろうぜ。さっさと寝ないと、遅刻する。授業出られる間に出とかないと、卒業できなくなるしな」
「あぁ」
アルトにとっては、S.M.S所属を家族に告げて居ない以上、学校をさぼってるなどと言う事情がばれたら家に連れ戻され兼ねない。
未成年者である上に、家族と言う強固なしがらみを持つアルトの立場は、それ程に安定を欠くものだ。
そのうちS.M.Sが正式に動くのだろうが、今は諸々の混乱が表立っている為、半ば勢いで入隊の決まったアルトの細々とした処理が済んでいない。
問題など山積みではあるが、己にとって最優先すべき問題は片付いた。
後は、責任ある立場の人々が責任を持って、片付けてくれることであろう。
新人を即戦力として戦陣に加えているのだから、それくらいの事はむしろして当然でもある。
「姫」
「ん?」
「好きだよ。むかつく事も腹立つこともあるけどな」
「…言ってろ、ばーか」
アルトがあきれたように、けれど、口の端に笑みを浮かべて、歩き出す。
揺れる髪が、アルトに従うようになびく。
その姿を視界に収めるように見つめて、ミハエルはいつものように、アルトの後ろを歩き出した。