倭国無常、春らんまん

「姫」
「あ?」
道端で声を掛けられる事など珍しくも無いが、聞き捨てならぬ呼称での呼び方に、機嫌が急降下するのは、致し方の無い事であろう。
必然的に、やや不遜な態度と口調でもって、背後を振り返る。
「何か用かミハエル!?」
「No.Call me Michel.」
幾度となく繰り返された言葉の意味は既に覚えており、それを無視して会話を進める。
「…こんな所で何やってるんだ?」
「姫の姿が見えたから、降りたんだ」
ついと、ミハエルが視線を向けた先には、鉄道馬車が既にしてゴトゴトとレールの上を走り出している。
異人を乗せて築地の居留地と横浜とを走る鉄道馬車は、未だ庶民には珍しいと言うしか無い異人の姿を間近に見られると言う事で、名物のようなものにもなっている。
まだ見ぬ鉄道とやらとは異なって、降りたいと御者に言えば、何処でも乗り降りが可能なのだそうだが、利用する予定の無い自分には、もっぱら人伝に話を聞いて得た知識でしか無い。
「降りたって…何で?」
「見初めたが恋路の始まり、後とも言わず今こ…たたっ!乱暴な姫だな」
ミハエルの台詞を最後まで聞かずに、その向こう脛を蹴っ飛ばす。
先日、己が演じた歌舞伎の台詞の一つをこんな所で諳んじられたくも無い。
「そう言う余計な言葉ばかり覚えるな!お前は何の為に、日本に来たんだ!」
「もちろん、Englandと日本の大事な商談の為さ。こうして、俺と姫が親しくする事は、互いの国家にとっても悪い話じゃあ無い筈だろう?それに姫、俺が此処で姫に狼藉を受けたと告げれば、不味い事になると思わないか?」
「ひ、卑怯者!ちょっと蹴り飛ばされたくらいで、大袈裟な!」
「姫がつれないのが悪い」
「だから、どうしてそう言う言葉ばかり…!」
つれない、などと、一体どこで覚えて来たのか。
まかり間違っても、商談に必要な言葉では無いはずだ。
「I LOVE YOU.が通じないんだから、こちらの言葉に合わせてるだけなんだけどな」
「は?」
時折、ミハエルの会話に混じる母国語は、自分には理解できぬものばかりである。
聞けば、その言葉の意味を教えてくれるのだが、全ての意味を理解できるわけでは無い。
国が違う、と言う事を如実に物語るかのように、自国の言葉で説明されているのに、意味が飲み込め無いものも多い。
一体、どういう意味だと見返しても、ミハエルは曖昧に笑って肩を竦めるだけだ。
説明しろ、と詰め寄りかけた所で、背後から物凄い剣幕の声が届く。
「Michel!What are you doing here!?」
自分を追い越す形でミハエルに詰め寄っているのは、ミカエルと同業者だと言うルカだ。
異人とは皆見上げるように大きな男ばかりと思い込んでいる自国の人々にとって、小柄なルカの体躯は、見ていてどこか拍子抜けする部分が大きいようである。
歳を聞けば自分より一つ下ではあるので、さして違和感も無いのだが、ミハエルと並ぶと歳の離れた兄弟のようにも見える。
『勝手に馬車止めて!』
『そう怒るなよルカ』
異国の言葉で矢継ぎ早に応酬する二人のものめずらしさからか、周囲からちらちらと向けられる視線に、やれやれとため息をつく。
どうして、自分達がこんな妙な関係になっているのかが、理解できない。
そもそも、自分とミハエル達との関係は、ほんの数時間ほどの付き合いで終わるだけのものだった筈だ。
イングランド、と言う遠い遠い国からやって来た商人のミハエルに歌舞伎を見せて必要に応じて持て成せとの、政府高官からのお達しがあったのだ。
勿論、そのとんでも無い申し出に、幕府が無くなっただのの話よりも、一座を混乱に陥れたのは言うまでも無い事だ。
異国人が来て、あちこちの港が解放され、それから暫くして徳川様の世が終わった。
今の明治政府が正式に『開国』と言う形で、鎖国を解いたのがほんの7年前の話だ。
その頃の自分と言えば、10歳になったばかりで、世間の酷い変わりように流されるままだったようにも思う。
そうは言っても、役者稼業の自分達には、あまりそう言った世間様の様相は関係が無く、身分が無くなっただの何だのとは言われても、結局は働かざるもの喰うべからずの方針は変わる事なく、いつものように稽古をし、舞台に立ち、日銭を稼ぐ、と言った生活に何ら変わりは無かった。
早乙女屋は、それなりに客を集める事も出来、時にはお偉方が桟敷席に紛れ込んで居るのを舞台袖から見る事もあるような、つまりは歌舞伎の世界では、そこそこ古参に当たる一座だ。
そんな早乙女座に、政府筋からの話が舞い込んだのがひと月程前の事である。
曰く、イングランドのさる商人が我が日本国の芝居にも興味をもたれ…云々と言う説明は長いので省くが、つまりは芝居に興味を持ち、政府高官が数ある歌舞伎の一座の中から、早乙女座を選んだわけである。
勿論、そう言った役目は、父や兄弟子が引き受けるのが筋であるのだが、父親達ほどの年の者は、皆そろって異人にはあまり良い顔をせず、必然的に歳若い自分に白羽の矢が立ってしまった。
若さを理由に押し付けられたのだとは思うが、元々、客相手に演ずる事が生業でもあったのだから、少々珍しい客が来たのだと思えばどうと言う事は無いと、二つ返事で頷いた自分に、そう言う辺りが、若い方の特権ですねと、さして歳の変わらぬ兄弟子が言っていた。
今さらながらに、その時、すんなりと頷いてしまった自分を、激しく後悔している。
最初に舞台衣装で挨拶をした時に、ミハエルは自分を本当の『女性』だと信じ込んでいたようで、その後の顔合わせで『姫』だの何だのと、言われたのが運の尽き、こちらの名乗りなど聞く気も無いのか、姫と呼ばれ続ける状況が続いている。
ようやくの議論が終結したのか、ミハエルがこちらへと向き直った。
「姫。この後の予定は?」
「稽古も終わって、特に何も無いが」
「なら、付き合ってくれ」
「は?」
「花見…だったか?この国では、桜を見ながら酒を飲むのだろう?」
「風流、と言うものですよね?」
「……」
ミハエルに続くように発せられた好奇心一杯のルカの言葉に、返答をし損ねる。
別に花を見ながら酒を飲むのが花見でも無いし、それが風流だと言うわけでは無い。
無いのだが、自分もまたその辺りの機微を、説明してやれる程の、語彙は持ち合わせて居ないのだ。
散る花を惜しむように、その一時の儚さを味わいつくすかのように、謡い、時には舞い、笑い、酒を酌み交わす。
それを、その筆舌に尽くしがたい儚さを、夢の如き現を、全てを風流と言うのだろうが、おそらくはこればかりは、言葉にした所で無意味なものなのだ。
「姫?」
「有人さん?」
「…あぁ…そうだな、まぁ見れば、分かるだろう。風流だの何だの、言葉にしても、意味は分かりにくいものだと思う」
「LOVEみたいなものか」
「さっきから、それ、何の事だ?」
「口では語れ無いものだな。俺が姫に捧げたいものなんだけどね」
「へぇ。…ルカ、どうした?熱でもあるのか?」
何故だか、耳まで真っ赤にしているルカにそう声をかければ、弾かれたように顔を上げて首を振る。
「oh…well…、だいじょうぶ、です!」
いまいち信用できない対応ではあるが、子供では無いので何かあれば言うだろう。
異国の地にて病に掛かる事は、彼らにとって何より恐ろしい事なのだと、先だって危うく風邪を引きかけたミハエルが零して居たのだ。
「じゃあ、どこかの座敷でも用立ててもらうとするか」
異人である以上、それなりの警戒を持つ必要があるのだ。
滅多な事は無いとは分かっているが、人目の多い所では、どんな騒動になるかも分からない。
「有人さん、どこか良い店をご存知でしょうか?」
「あぁ。知ってはいるが…俺の使う店だから、お前達が普段使っているような店とは違うぞ」
取引相手が、政府高官なのだから、当然ながら商談の場に用いる場所は、その辺りの敷居の低い座敷では無い。
当然、そう言った店はもてなしも一級であろうし、店のつくりからしても、塵一つ無い小綺麗さを誇っている筈だ。
「こっちは船旅で、海水を被った服や髪で、何日も過ごしもするんだ。今更、店が汚くても、ぼろくても、気にしたりはしない」
「なるほど。それは助かる。じゃあ、行こうか」
「今から?」
少々、意外そうに問いかけるミハエルに、にやりと笑って頷いてみせる。
「花見に昼も夜も関係ないんだよ。まぁ行けば分かる」
そうとだけ告げて歩きだせば、二人にさして異論は無いのか、そのまま後をついて来る。
異国人を従えて歩く己は、さて人からは如何様に見られているのだろうかと益体の無い事を思いながら、のんびりと足を進めた。