極彩色の悪夢・6

日暮れ前のフライトまでにと思い、まだ燦々と陽光の差す時間に病院に足を運んだのは、自分の怪我以外では初めての事かも知れない。
暫くは安静に。
そんな事を言われて、けれど、結局そのあまりの退屈さに辟易して、現場に復帰したのは、あの騒動から5日後の事だった。
半ば強引に現場復帰した自分を、ルカは眦を吊り上げて睨み、それから、何やら含みの盛大にありそうなため息をついて、近場のみならばと言う条件をつけての、フライトを許可してくれた。
その時の表情を思い出して、苦笑いが浮かぶ。
本来ならばルカに許可を貰う必要など無い。
無いのだが、最近とみに厳しい後輩には、逆らわないでおこうと言うのが、アルトの考えだ。
それほどに、自分が心配をかけたのだと言う事も分かっている。
このフロンティアは、あまりにも、多くの命を、喪いすぎたのだ。
誰しもが『喪失』に本能的に怯えている。
そして自分もまた、その怯えている人間の一人に過ぎない。
言葉を交わして、笑って、怒って。
人が生きているのだと確信できる要素は、日常のそんな些細なやり取りの中にこそ、あったのだろう。
今は、動く事も無く、笑う事も無く、目の前でミハエルは、ただ眠っているのだ。
目の前で、規則正しく繰り返される呼吸だけが生きている証であり、瞬きの合間に止まってしまうのでは無いかと、無駄に怯える自分を慰めるように刻まれる機械音。
怖いなら、会いに来なければ良いのだと、分かっている。
けれど、やはり足はどうしても此処に向かってしまうのだ。
ただ、言葉をいくつか紡ぎ、眠る姿を見つめ、別れの言葉を残して立ち去る。
いつも同じ事を繰り返す。
それは、今日も何も変わらない。
「また、な。ミシェル」
小さく息をつき、椅子から立ち上がる。
この静か過ぎる空間では、僅かな物音でも、思いの他、大きく聞こえるのだ。
カタリと響いた椅子の音。
そして。
反射的に、振り返ったのは。
耳が、拾った、不規則な、吐息。
「ミ…シェル…!?」
「…」
真上から覗き込む自分の呼びかけに応じたつもりなのか、唇が己が名を象るものの、それは音にはならない。
当たり前だ。
声帯とて、一つの筋組織なのだ。
何日もろくに動かさなかった筋肉が、まともに機能する筈も無い。
それでも、その双眸が自分を捉えて居る。
その事実だけで、アルトには充分だったのだ。
目を逸らせば、全てが己が願望の見せた幻であったのだと、そんな結末になるような気がして、ミハエルを食い入るように見つめたまま、引っつかむようにして手に取ったナースコールのボタンを押す。
一度で充分なのに、何度も震える指がそれを押す。
何かを、きっと言うべきなのに、言葉が生まれない。
言いたい事があった筈なのに、言葉にならない。
ばたばたと駆け込んで来る医師と医療器材を運び込む看護師。
彼らの交わす言葉は、全く耳には入って来ない。
何か声を掛けられた気もする。
けれど、それに何を返す事も出来ないままに、追いやられる形で、アルトは後退るように、病室を出た。
ふらつく足がそれ以上の行き場を無くし、背中がどん、と廊下の壁にぶつかる。
あぁ、廊下の壁、だと、まるで他人事のように、認識する。
「アルト先輩!?」
騒ぎに駆けつけて来たのか、ルカが壁に力なく寄りかかっているアルトの腕を掴んだ。
「ミシェルが…」
途切れさせた言葉をどう解釈したのか、ルカの顔色が一気に青褪める。
アルトはそれに違うとでも言うように首を振り、言葉を乗せる。
「目を…、目を、覚ました」
室内の騒然とした空気と、医師と看護師達が矢継ぎ早に交わす言葉は、専門的すぎてルカの耳には、正確には理解できない。
声を掛けられるような状況でも無く、じれったい思いで病室を見ているルカの横で、アルトがふらりと歩き出す。
「え!?ア、アルト先輩!?ちょっ!ど、どこ行くんですか!?」
それを言った後、ふらりと壁から背中を外して歩き出すアルトの腕を、ルカは慌てて捕まえる。
アルトは妙に冷静な顔でルカを見下ろし、そして端的な言葉を返した。
「仕事」
「仕事って…そんなの今は…!」
何が何でもアルトが飛ばねばならない理由など、ルカには思い当たらない。
体調不良を理由に、職務を交代する者とて居るのだ。
「いや、俺がここに居ても何もできないし…」
「何言ってるんですか!いいですか!?此処にいて下さい!絶対ですよ!」
そうアルトに怒鳴ると、ルカは携帯電話を取り出しながら、病院内を疾走する。
院内を走らないで下さい、と言うお決まりの看護師の言葉など、今ばかりは無視だ。
通話可能圏内に飛び込むや否や、走りながら呼び出していた番号に、即座にコールをかける。
「シェリルさんでもランカさんでも、どっちでも良いですから!」
壊しそうな勢いで携帯を握りながら、機械的な呼び出し音に、そうイライラとしながら怒鳴る。
『はい、もしも…』
「アルト先輩、今日は不参加です!」
『ル、ルカ君?』
開口一番のルカのその言葉に、通話を繋いだランカは混乱するしか無い。
一先ず、相手の名前は認識できた、と言う程度だ。
「今、ミシェル先輩、目を覚ましたんです。でもアルト先輩、仕事行くとか言うし、意味分からないですよ!ワーカーホリックですかあの人!」
淀みの無い口調でありながらも、最後には泣き言を加えるルカも、傍から聞く分には充分に混乱している節がうかがえる内容を口走っている。
『え?え…えぇぇぇぇ!?ミシェル君、起きたの!?嘘、え…わわわわ……ちょっと、かして。ハイ、こちらシェリルよ。ねぇアルトの馬鹿にこっちに来たら、恥ずかしい思い出アレコレ公共電波で暴露するわよって言うのよ。それからミシェルには、お・そ・よ・う、って言っておいて頂戴。当然だけど、後の事はアタシに任せなさい。何とでもするわ。そろそろ、こっちも、リハ始まるし、終わったらまた連絡するわ。じゃあね』
混乱してるランカから携帯電話を強奪したシェリルの、立て板に水の如くの何とも勇ましい口上のままに、口を挟む隙も無く通話を切られてようやく、ルカも幾分、落ち着きを取り戻す。
手の中で、ツーツーと音を立てるそれを見下ろし、瞬きを二つ。
今の気分は、未知の生命体と交信した、とでも言うのがしっくり来る。
「うわー…」
あれが、シェリル=ノーム。
銀河の妖精と呼ばれ、呼ばせ続けた女性の、本領なのだ。
土壇場で、恐ろしい程に強く在れる。
知っていた筈なのに思わず呆けてしまいそうだったルカだが、ふるりと首を振ると、アルトの『臨時休業』を押し通せるであろうオズマへとコールをかけた。