生という病、眠りという薬、死という治療

カツリカツリと、静寂ゆえに音の反響しにくい構造の廊下に、足音が響く。
ナナセを見舞った帰りに、ミハエルの病室へと足を向けるのは、ルカにとっても習慣と言うか、病院に来た時の順路のようなものだ。
だが既にして意識も戻り、リハビリも始めようかと言うナナセを、毎日見舞っているわけでは無い。
許されるならば毎日でも顔を見たいと言うのが本音だが、ナナセの元には家族が頻繁に訪れるので、さすがに妙齢の女性の病室に居座ると言うのも気まずい感じもあり、ルカはナナセの元を訪れるのは、数日に一度と、そう決めていた。
そんな理由もあって、ミハエルを見舞う回数もそう多くは無い。
けれど今日ばかりは、ナナセの元にも赴かずに、ルカは真っ直ぐにミハエルの病室に向かっていた。
どうしても、ミハエルに会わねばならなかったからだ。
扉など、この病院のどれも同じ作りなのに、それでも不思議と見間違える事も無い、ミハエルの病室の扉を、軽くノックする。
応じる声は無い。
無論、静寂こそが、返答なのだ。
それでも、失礼します、と声を掛けて引き戸を開けると、ベッドに横たわったまま眠るミハエルの枕元までルカは黙って足を向けた。
壁際に寄せられた椅子を枕元まで運び、そこに腰を下ろす。
少しだけ見下ろす位置にあるミハエルの顔を見つめ、ルカは口を開いた。
「ミシェル先輩、いい加減に、ちょっとだけでも良いから起きてくれませんか?」
自分の目の前で無くて良い。
アルトの前で、10秒でも良い。
5秒でも良い。
その瞼を開いて、何処にも行けないままで居る、アルトの姿を見つけて欲しい。
もう望めば自由に飛べる筈なのに、いつまでも自由に飛べないアルトを、見つけて欲しい。
「僕ね、本当はすっごい心配してたんですけど、泣いたりもしたんですけよ。でもね、それも過ぎると、だんだん腹が立って来るんです。人間ってとことん不思議な生き物ですよね」
ミハエルが死んでしまうのだと、そう絶望した。
思いもしなかった喪失の予感に、震えた。
あの瞬間、多くの命を喪ってしまっていたから。
そんな風に、ミハエルの命が潰えてしまう事が、まるで避けられぬもののようにすら思えて、だからこそ怖かった。
けれど、ミハエルは生きていた。
そして、あれからずっとミハエルは、その命の鼓動を止めていない。
「ぐーすか寝てるわけじゃないって知ってますけど、ちょっとね、本気で寝すぎですよ。もうね、いっそのこと起きるか、起きないか、はっきりして下さい」
身勝手な言葉だ。
当人だって好きで怪我をしたわけでも無い事くらい知っている。
動けぬ事すら気づきようも無い現状である事も。
全部、分かっている。
それでも。
「このままだと、アルト先輩が、潰れちゃいます。だって、先輩を止める人も、防波堤になってくれる人も、誰もいないんです。シェリルさんやランカさんが一緒の時はいいんです。あの人たちは利用される事を、もう許容したりしないから、アルト先輩のことをちゃんと助けてくれます。でも、アルト先輩一人だと、ダメです。全部、引き受けちゃうんですよ。変なプロパガンダ染みた事だろうと、パイロットの仕事だろうと、何でも…」
人類の希望であれ、と歌う事を望まれた二人の歌姫は、誰かに利用される為には、歌わない。
いっそあからさまな程に、一人の為に歌う事はあれど、『軍』や『思惑』の為に歌う事はしない。
けれど、アルトはそうでは無い。
「あの人、押しに弱すぎますよ。ミシェル先輩はそれで良かったんでしょうけど、自分がいない時の対策が無い辺りが最悪です。よく考えたら、シェリルさんやランカさんに、振り回されまくってましたもんね。て言うか、そんな事はどうでも良いんですよ。とにかく、アルト先輩、あのままだと、本当にダメになってしまいます…」
もう、限界では無いだろうか。
誰かアルトを引き止めてやって欲しい。
自分の言葉では、足りないのだ。
あの戦いの、最後の希望を委ねられたアルトは、いまだにその希望を背負わされたままなのだ。
違う。
形を変えてしまった様々な『希望』が、アルトに委ねられたまま、そしてどんどんと大きくなっていっている。
そして、それをアルトは分かっていながら、否、分かっているからこそ、飛ぶ。
今のフロンティアは、それ程に不安定なのだ。
「明日から、アルト先輩、此処に来られませんからね。僕が代理でお見舞いに来ますけど、アルト先輩みたいに黙って傍に居たりしませんよ。文句、一杯言いますからね。嫌だったら、さっさと起きてください」
寝てても端正な顔に、いっそ落書きでもしてやろうかと言う気にすらさせられる。
そうしたら、アルトは笑うのだろうか。
あの頃みたいに。
ただの、学生だったあの頃みたいに。
「…本当に早く、おきてくださいね。それじゃあ、また明日」