モノクロの夢

「アルトさん、誰も居ませんから、出ていらっしゃい」
縁側から庭に向けて放った矢三郎の穏やかな呼びかけに、ガサガサと音を立てて茂みが揺れ、アルトが庭園の脇にある茂みからひょこりと顔を出した。
周囲を慎重に見回しながら、己の下まで、慎重な猫のようにアルトがやって来る。
頭や肩の上に、明るい緑のサツキの葉を乗せているアルトに苦笑いを向けて、それを丁寧に取ってやりながら言う。
「師匠なら、お出かけになられましたよ」
「本当?」
「えぇ」
笑って頷いてやれば、アルトはほっと安堵したように息をつく。
アルトにとって父親は苦手意識ばかりが先立つ人になってしまった。
美与が生きていた頃はそうでも無かった筈なのだが、美与が病で儚くなってからは、お互い口下手な所が災いしてか、決定的に意思疎通が図れて居ない。
もうすぐ13歳になるとは言え、アルトは母親を喪ってただ淋しいばかりの子供に過ぎないのだが、父親の方がその淋しさに気づいていても他の事で紛らせば良いとばかりに稽古をつけるので、余計にすれ違ってしまっているのだ。
多分、アルトには一言で良いのだ。
母の死を悼む言葉。悲しむ言葉。
けれど顔を合わせれば父親は、歌舞伎の話しかしない。
まるで母親の死など無かったかのような父親の振る舞いに、アルトの心はどんどんと嵐蔵から離れて行って居る。
思わずそんな思案にくれてしまった矢三郎の袖を、くいとアルトが引いた。
「兄さん、千代紙ある?」
「千代紙、ですか?…今すぐには、ありませんね。誰か買いにやらせますが」
アルト一人を買い物に出すわけには行かない。
当人はもう中学生であるのだから買い物くらい、と言いはするが、はっきり言ってアルトを一人で外に出せば確実に誘拐される、若しくはそれに類する危機に見舞われる、と言うのが門下生一同の一致した見解である。
男物の着物を着てはいるが、アルトの容姿は母である美与にそっくりで、どこからどう見ても、紅顔の美少女、である。
着物に造詣の深く無い者にして見れば、アルトの容姿だけで、不逞の輩のいらぬ欲求を焚き付けるには充分な筈だ。
「そっか…」
肩を落とすアルトに、矢三郎は軽く腰を折って目線を合わせる。
「今すぐに入り用ですか?」
「母さんに、鶴をって思ったんだけど…無いなら、いい」
美与に教えて貰った紙飛行機ばかりを折っていたアルトだが、今では時折、生前美与が好んで作っていた折り鶴を、仏前に供えている事を矢三郎も知っている。
「あぁ…。でしたら、一緒に買いに行きましょうか」
「いいのか?稽古、あるだろ?」
「先生もお出かけになりましたし、少しくらいなら構いませんよ。」
顔を輝かせて喜びを表現するアルトの頭を、矢三郎は軽く一撫でしてやる。
こんな些細な仕草一つでも、満足そうな笑みを浮かべるアルトを知って居るだけに、嵐蔵の不器用さが何とも心苦しい。
かと言って、それを伝えた所で、嵐蔵が実行するとも思えないのだ。
この先、アルトは成長期を迎え、心身共に成長する。
勿論、反抗期などもそこにある以上、どうあってもこの親子は一悶着起こしそうな予感が今からしてならない。
「こじれた糸が解けるには、随分と時間がかかりそうですねぇ」
「?」
「何でもありませんよ。さ、行きましょう」
手を差し出せば、微妙に躊躇い、それでも寂しさからか、おずおずと握り返して来る未だ幼い手がある。
けれど、幼い、と一言で片付けられぬ才能が、既にしてアルトにはあるのだ。
だからこその、嵐蔵の厳しさだと、それを知るにはアルトはまだ、心身共に幼い。
出来ればこの才能が散ること無く、鮮やかに開花する様を見ていたいと思うのは、芸に魅了され、また逃れられぬ者の愚かなまでの生き様なのかも知れない。