愚かな人間と幸福な人間だけが死にたがる

覚束ない足取りであったものの、それでも根性でロッカールームに辿りついたアルトが、倒れこむようにして力なくベンチに転がる。
「姫。そこで寝るなよー」
「眠い。死ぬ」
「死なない死なない。まだ死ぬレベルまでやってない」
笑いながら、ミハエルはロッカールームの明かりをつけた。
相変わらず、何か薄暗い。
女性用のロッカールームをまじまじと覗いた事は無いが、少なくともこの微妙な男臭さや、雑然とした感じは恐らく無いのだろう。
ごろりと仰向けに転がり直したたアルトが、天井を見上げながら、ぼそぼそと口を開いた。
「お前、これと学校と両方こなしてたんだよな…」
アルトがS.M.S小隊に加わる以前から、ミハエルとルカは学業とS.M.Sとの生活を両立させて居たのだ。
確かに今ほどスクランブルの回数も無かっただろうし、『敵』との戦闘も無かった事を思えば、今の状況よりも楽ではあるのだろうが、それでも肉体的にも精神的にも疲労する訓練をこなしながらも、ミハエルは何気ない顔で首席の座に君臨し続けていたのだ。
学年の差異があるとは言え、ルカも学業面では文句なしの成績である。
「お?何だ、ようやく俺の偉大さに気づいたか?」
「言ってろ馬鹿」
即答で返される暴言に、ミハエルはやれやれ素直じゃないと肩をすくめる。
そんなミハエルを横目で睨むと、アルトは眉間に皺を寄せながら、不服そうな表情を浮かべた。
「……こっちは、学生やってんのに手一杯だってのに…ムカツク」
「あーそう言う意味か」
『ムカツク』のは、それをこなせてしまっていた、ミハエルとルカの余裕に対する、悔し紛れの言葉だ。
言葉の意味を把握し、ミハエルはくくっと喉の奥で笑った。
「悪いけど、俺は最初っからこっちにしか、進む気は無かったからな。学園に進んだのもオマケのようなもので、航宙技術専門の知識を得る為にだけだ。ルカはあの通り、実家との関係と趣味と実益とを兼ねて、こっち関係に進む予定だったし。ま、俺たちはこう言う生活になる覚悟って言うか心構えが、最初っからあったんだよ」
誰も別に強制的にS.M.Sへと参入させられたわけでは無い。
ルカにはルカなりの打算も思惑もあったのだろう。
何の苦労も無く生活できるはずのルカの実戦部隊への参入は、それ相応の覚悟があり、そして○側もそれをも混みで、S.M.Sへの惜しみないバックアップを行っている。
そして自分は、埋もれ風化してしまいそうな真実を追求する為に、軍では無く、S.M.Sでスロットルを握る事を選んだ。
「パイロットと無縁の家系の俺がもたついても、仕方無いって事か?」
「…むしろ、俺としては、パイロットと無縁も無縁の家系の姫が、あっさりと次席の成績を収めたり、自分の機体操縦して戦場飛び回ってる現実のが『ムカツク』んだけどね」
「は?」
ムカツク、などと言う甘い言葉では足りない。
憎たらしいくらいである。
ほんの1、2年程前までは、パイロットになる術も知らずに、むしろ殆どの時間を歌舞伎の稽古に費やしていたアルトが、目まぐるしく濃密ではあっても、半年にも満たぬ短期間で、それまでパイロットとして実地訓練までこなしていた自分達との距離を一気に詰めたのだ。
これが才能か、とそう思った。
無論のこと、アルト自身の努力も忘れてはならない。
けれど、努力もまた一つの才能だ。
カミサマとやらは、全くもって余計な事をしてくれる。
ここまでの才能を与えておきながら、アルトの望みは、エースパイロットになる事でも、階級を上げる事でも無いのだ。
ささやかな、ささやかな。
けれど、眩いばかりの夢一つを、かなえる事。
「…なんでお前がムカツクんだよ。余力有り余ってるくせに」
こんなものは余力とは言わない。
慣れればアルトだって、どうと言う事も無くなるものだ。
学校生活とS.M.Sの訓練など、そう時を置かずして、平然とこなせるようになる。
そして、そんな風にアルトは自分達に並び、追い越して行く気がする。
追いかけるものが、違うからこそ、アルトは誰よりも先を進んで行けるのかも知れない。
人の闇を探り続ける己とは、進む先が違いすぎるのだ。
「姫には分からない事さ」
「そう言う答えは止めろ。言いたく無いなら、言いたく無いって言え」
身を起こし、アルトが不機嫌な顔を更に不機嫌にさせる。
否。どちらかと言えば、怒っているのだろう。
アルトは、こんな風に己が言葉を曖昧にさせる事を厭う。当人が直情径行があるせいか、余計にそうなのかも知れない。
よく言えば正直、悪く言えば不器用、だ。
「じゃあ訂正する。姫には言いたく無い」
「…それはそれで、ムカツクな」
「どっちにしろ怒るのかよ。我侭な姫だ」
笑ってアルトの頭を小突く。その拍子に揺れる髪を掴み、指で梳くように撫でた。
「少し伸びたか?」
「そうかもな。ここ暫く、そんな余裕も無かったし」
新しい環境を受け入れるのに手一杯だった。
それに髪が伸びようとも、此処までの長さがあれば、もう1センチや2センチ伸びた所で何が変わるわけでも無い。
「切るなよ」
相変わらず、自分よりも自分の髪に拘るミハエルに、アルトは苦笑いを浮かべる。
「お前が煩いし、忙しくて切る暇も無い。いっそ願掛けにでもするか」
「願掛け?」
「願いが叶うまで、髪を伸ばし続けるんだよ」
自分の髪の毛をつまんで、アルトが言う。
そう言えば、そんな民俗めいたものを、いくつか聞いた事がある。
多くは地球全般の古来の習俗らしいが、それらを色濃く引き継いで居るアルトの家系には、そう言った話は茶飯事のように残っているのだろう。
「願いって…あぁ、アレか」
アルトの夢。
空を、飛びたい。
そんな事をいくら真顔で口にしても、EXギアをつけて飛び回る航宙科の生徒であるアルトに『毎日、飛んでいるじゃないか』とそう無粋な言葉を返す者の方が圧倒的に多いだろう。
けれど、アルトの目指す空は、頭上に広がるフロンティアの空でも、深淵なる宇宙でも無いのだ。
人が叡智でもって生み出した『大気』と『空』では無く、紛う事なき本物の空を、自由に飛びたがっている。
夢の純粋さに、めまいすら覚える。
そんな事を願う者が、居る事に、戸惑う。
夢だの何だのを、とっくの昔に切り捨てて此処に立っている自分には、もはや抱こうとすら思わぬものを、後生大事に抱えているアルトが羨ましくもあり、憎らしくもあり。
そして。
その馬鹿げた夢が叶えられる事を、我が事のように、願いもするのだ。
アルトが願うから。
アルトが望むから。
その夢を、夢見たくなる。
「ミハエル?」
「手の込んだ願掛けなんかしなくても、この面倒な騒ぎが終われば、褒美に、オーナー辺りが、どっか適当な惑星くらい自由に飛ばせてくれるんじゃないのか?」
「だといいけどな。まぁ、その前に、ヴァジュラを何とかするのが先だが」
褒美、などがもらえるのは、己が職務を遂行できた場合のみだ。
そして今現在、S.M.Sが遂行せねばならぬ職務とは、フロンティアを守り抜く事、すなわちヴァジュラの殲滅だ。
若しくは、フロンティアをヴァジュラから可能な限り無傷の状態で、逃げ果せさせる事だ。
現状の戦力で、それが相当な無理難題である事は、前線で戦うアルト達には嫌と言う程に分かりきっている。
「あいつらも、大概しつこいしな。全くもって妙な敵に遭遇しちまったもんだ」
「弱気か、ミシェル?」
「まさか」
不遜な顔で、一言、そう断じてのけるミハエルに、アルトもにやりと笑みを返す。
そう。
ミハエルが、ヴァジュラには勝てそうにも無い、などと言い出す姿など想像できない。
この男はたとえそう思ったとしても、それを絶対に口にはしないとも、分かっているのだ。
「だよな。お前が弱気だと気味が悪い」
「俺だって弱気になる時くらいあるんだけど」
「知ってる。お前、分かりやすいし」
ポーカーフェースで、常に人を食ったような笑みを浮かべているミハエルだが、どこかでスイッチの切り替えが行われているのか、表情の箍が緩む状況はいくつか存在する。
それを、自分は知っているのだ。
だが、言われた当人は心底意外そうな顔で、アルトをまじまじと見つめ返した。
「…………」
「何だよ」
「……姫にその台詞だけは言われたく無いんだけどなぁ」
「どう言う意味だ」
「いやいや。思ってる事が、片っ端から顔に出てるとかそう言う意味じゃないぞ」
「ミシェル」
「怒らない怒らない。ほら、顔に出てるぞ。」
茶化すように言って、ついでのようにアルトの眉間をとんと、人差し指で突く。
無意識に寄っている眉根に、アルトがはっとしたように表情を緩めた。
「今からそんな厳しい顔してても仕方ないんだ。四六時中だらけてろとは言わないけど、もうちょい肩の力抜いとけよ。実戦だって、姫は充分にやってるんだ。そこは間違いなく、S.M.Sの連中が評価してる」
つい先日まで学生だった人間が収めた成績にしては、充分すぎるのだ。
それを素直に称賛するのは、アルトの今後にとってもよろしくは無いと言う事で、皆、勝手にアルトの知らぬ所で褒めているだけに止まっている。
隊長であるオズマがそれなりにアルトを褒めれば事足りる事であり、皆してアルトを誉めそやす必要は無いのだ。
「…こんなんじゃ、まだまだ、足りないような気がするんだ。全然、足りてない気がする」
掌に視線を落とし、アルトはそれをぐっと握りこんだ。
「皆、そう思ってる。でも現行の機体の精度じゃ、これ以上の『何か』は望めない。お前が血吐くほど訓練したって、走り込みしたってな。むしろ、ここから先に必要なのは精神力みたいな…そう言う心の強さみたいなものかも知れない」
「…」
「だから皆、機体に家族の写真持ち込んだり、惚れた女の写真貼り付けたりしてるんだ。負けちまいそうな自分の心に、希望やら、勇気やらを貰う為に」
諦めそうな己を踏み止まらせる為に。
挫けそうな心に希望を見出す為に。
「お前は?」
自分よりも長く飛んでいるミハエルは、ならば、何をよすがに戦いを乗り越えて居るのか。
「俺?惚れた女の写真なんか貼ってたら、モニターが埋まっちまう」
冗談めかして肩を竦めるミハエルに、アルトは言ってろ、とでも言うようにミハエルの膝頭を一つ叩く。
さして痛くも無いそれに、軽口のように、痛いぞ暴力反対、と言葉を返して、ミハエルがアルトと背中合わせになるように、ベンチへと座り込んだ。
互いの体重を預けあう形で、背中でバランスを保つ。
汗が引いて落ちついた互いの体温が、心地よい。
暫し何を語るでも無く互いに沈黙し、そしてミハエルが、首を少しだけ上向けて口を開いた。
「目に見える形のものを…俺は頼みにしたくは無い。俺は、何があったってスコープから視線逸らすわけには行かないからな」
ミハエル=ブランとして存る為に。
ジェシカ=ブランの弟として、彼女のその腕を引き継いだ者として。
最後のその瞬間まで、己はスコープから視線を外す気もなければ、銃爪から指を外す気も無い。
「たぶん俺は、敵を確実に仕留められるなら、いくらでも、戦場で戦えるんだよ」
敵を確実に仕留め、己がその腕を、紛れも無き本物だと証明し続ける事。
それこそが、己が戦場を生き延びる縁なのだ。
「…そうか」
「そういう意味じゃ、姫も似たようなもんじゃないか?」
「?」
「『モノ』じゃなくて、『夢』があるから、しぶとく飛べるだろ?」
ミハエルの問いかけに、アルトは軽く目を閉じる。
形として表せるものでは無い。
どこかに貼り付けたり出来るものでも無い。
けれど、『夢』は確かに、自分が飛ぶ事の、生きる事の、理由だ。
「あぁ」
静か過ぎるほど静かな声で頷くアルトに、ミハエルはふっと天井を見ながら笑みを零す。
夢は、何よりもアルトを、前へと進ませるだろう。
無論、死にたく無いのは、誰だって同じだ。
夢があったり望みがあったりするのが当然で、アルトだけが特別なわけでは無い。
戦闘機乗りなどと言う職業は、死に近しいもの過ぎて、死にたがりの集団のように思われがちだが、ある意味一番、生に執着している連中の集まりだ。
死にたくないから、凡そ尋常とは言い難い訓練に耐え抜き、飛ぶのだ。
それでも、死は避けられぬものだと言う事も分かっている。
歴戦の兵であろうとも、新人のパイロットであろうとも、容赦なく、慈悲など無く、死は訪れる。
そんな神の気紛れのような采配の中、生き延びる者は、腕と度胸と運と、そして、生きようとする意志が何よりも強固なのだ。
死を越えられる程の、生きる事への、貪欲なまでの欲望。
アルトには、それがある。
死ねないと思う意思があり、生きて叶えたいと切望する夢がある。
だから、自分はアルトが戦場を飛ぶ事を、受け入れざるを得なかった。
認めざるを得なかった。
アルトの夢こそが、アルトを生かすのだから。
「となれば、さっさと余計なものを片付けて、姫の夢を追いかけるとしようか」
「待て。何でお前が追いかけるんだ」
自分の夢は、別に誰かに追従して貰うようなものでは無いはずだ。
アルトが思わずミハエルを振り返って問えば、ミハエルがのんびりと言う。
「一人で飛んでも、寂しいだけだぞ。」
「一人で充分だ。」
「どーしてそう、つれないかねぇ」
「お前がつれてどうするんだ」
げんなりした様相で、アルトが突っ込むが、ミハエルは分かっていない、とでも言うようにわざとらしく両手を掲げて首を左右に振る。
「顔よし性格よし、行動力あり環境適応能力あり、頑健・俊敏・頭脳明晰。ほらな、お買い得だろ?釣って損は無いぞ?」
「自分で言うな」
「客観的分析だ。何か間違ってるか?」
「……………」
アルトは無言で、と言うよりも、絶句した状態でミハエルを凝視した。
この、過剰ともいえる自信は何処から湧いて出てくるのか。
否。聞いたところで無駄だ。ミハエル自身が、何かを意識しての発言では無いのだ。
それに、誰に聞いたところで、ミハエルだからな、の一言で終わりだろう。
そんなこちらの視線をどう解釈したのか、ミハエルがにこやかに笑って言う。
「そんなに見つめるなよ」
「…お前のその突き抜けた思考回路はどうにかならないのか」
「突き抜けて無いだろ。これでも、セーブしてやってんのに」
「は?」
「簡易とは言え密室。二人きり。それに、近い」
「…っ」
ついと顔を寄せた瞬間、反射的にベンチから飛び退ったアルトを眺めながら、ミハエルがゆっくりと立ち上がって言う。
「そこまで警戒しなくても」
「お、お前がっ!妙な事を言うからだろ!」
「妙な事じゃないって。健全な男子高校生の本音だろ」
そこで耳まで赤くするから、良いようにからかわれるのだと、突っ込みたいのを抑えて、ミハエルは警戒心むき出しで自分と距離を取っているアルトに言う。
「とりあえず、立ったついでに、シャワーと着替え行くぞ」
「わ、分かってる」
どこかぎこちない動作のアルトに、あぁ黙って押し倒してしまえば良かった、いっそ今からでも、などと思いながらも、それを実行せずにミハエルも自分のロッカーを開ける。
これ以上余計なことを言うと、アルトは警戒心むき出しで、数日は己に近寄らないだろう。
下手をすれば、ロッカールームで一緒になる事も避ける筈だ。
どこの乙女だと言いたくなるが、それがアルトなのだから仕方が無い。
こんな風に些細な事ですら厄介で手間のかかる相手だと分かっていても、それでも、結局は惚れた方が弱いのだ。
存在に、言葉に、声に、抱える夢にすら惹きつけられて、そうして逃げ場などなくなった己に、浮かぶのは苦笑いだけだ。
この恋を、捨てる事も隠す事も出来なかった己への、自嘲だ。
「ミシェル?」
「あぁ、何でも無い」
ロッカーを開けたまま動きを止めていたらしい己へと、訝しげな声を向けるアルトに、ミハエルは首を振ると、着替えを取り出した。
「お待たせ致しました姫」
「言ってろ。行くぞ」
ぶっきらぼうな口調でそう言い置いて、アルトがどこか怒ったような足取りで、ロッカールームを後にする。
そうして自分は、いつものように真っ直ぐ前へと進む背中を見つめながら、静かに追いかけるのだ。
その背中を、この視界から見失わない限り、己もまた、前へと飛べる気がしているから。
この暗い昏い宇宙を、迷わず、止まらず、飛び続けられる気がしているから。