生きるという欲望が存在するためには死を知らねばならない

ミハエル・ブランと、記された扉の横に設置されたプラスチック製の入院患者名を二度ほど確認しながら、アルトは看護師から聞いた部屋の前に立っていた。
このフロアに居る者は、怪我の程度に関わらず全て軍人ばかりである。
戦闘職の人間をまかり間違っても、一般人と同じ病室には放り込めない。
事情は諸々あるが、最たる理由としては、双方の精神状態を考した結果、と言う事になる。
自分の家族を、恋人を、子供を、友を。
最愛の人を。
何故、守ってくれなかったのか。
そんな理不尽とも言える言葉が、悲しみ故に、ぶつける場が無い故に、敵と戦う力を持つ者へと向けられるのだ。
兵士にしても、自身もまた同胞を失い、傷を負っている状況下で、遺族や負傷者から向けられる批難の言葉を冷静に受け止める事など出来よう筈も無い。
感情を律せよと、訓練を受けては居ても、理不尽さを感じもすれば、悲しみも胸に抱くのだ。
だが、軍人である以上は、『か弱い一市民』との口論は、充分にマスコミを喜ばせるような話にもなるだけであり、ただの口論ならいざ知らず手でも出た日には、事態の収拾などつけようも無い。
当然の帰結として、2次3次の被害を減らす為にも、負傷した兵は兵で、隔離されるように別フロアに収容されている。
緊急の治療を必要としたミハエルも、アルト達よりも先に病院に運び込まれ、負傷兵として広くは無いが個室を与えられていた。
「ミハエル?アルトだ。入るぞ」
ノックをしても声を掛けても応答は無く、検査にでも出ているのかと思いながら引き戸をそっと開けたアルトは、ベッドに横たわってい双眸を閉じているミハエルの姿を目に留めて、忍び込むように病室へと足を踏み入れた。
意図的に殺した足音のまま、ベッド脇まで進み、眠るその姿を視界に収める。
眼鏡を外し、瞼を閉じているミハエルの額には、負傷を物語るかのように、包帯が巻かれていた。
VFから放り出された状態のミハエルとシェリルを見た時、心臓はまさしく凍りついた。
何より、ミハエルのヘルメットの内側を染めている鮮血に、最悪の可能性すら考えたのだ。
幸いにしてそれは単なる杞憂であり、軽傷とは言い難いものの数針縫う必要があっただけで、特に後遺症の心配も無く、数日もすれば退院できると言う話を、看護師から聞いてはいる。
それでも、あの戦闘以降、ミハエルが起きている姿を一度も目にしていない側としては、その言葉を信用しきれて居ないのだ。
否。
信じられない、とでも言うべきなのだろう。
それ程に、あの光景は衝撃的だった。
自分の死も、仲間の死も、SMSに入る時点で覚悟していた。
そうできていたつもりだった。
けれど、現実はそんな容易いものでは無い。
目の前で無残に消えた命を知っていたのに、それは自分や、自分の親しい仲間以外の者だと、どこかで高を括っていたのだ。
今度の戦闘では、その考えの甘さを、突きつけられたようなものだ。
「ミシェル。いつまで寝てる気だ?」
確かに生きているのだと、それを確認するように、ミハエルの顔の横に静かに手をついて、アルトは顔を近づけた。
規則正しい静かな吐息が、唇を掠めるように過ぎる。
生きているのだ。
アルトは小さく微笑を刻み、そのまま軽く唇を重ねた。
その瞬間、ぐいと後頭部に回された掌に引き寄せられる。
「な…んっ!?」
驚きに目を見張るものの、悪戯を成功させたように笑むミハエルの双眸とぶつかった。
抗議の声を発する筈だった口内へと、狙いすましたかのようにするりと侵入して来た舌が、逃げようとする舌に追いつき、引き戻される。
ベッドに着いていた筈の手も、いつの間にか、ミハエルに手首を掴まれていた。
噛み付かれるように唇をふさがれ、口内を良いように嬲られる。
逃げようと、腕を突っぱねた所で、ミハエルの額を覆う冴え冴えとした白に、ぎくりと身が竦んだ。
そんな自分の動きに気づいたかのように、妙に丁寧な動きで、なだめるように舌が擦り合わされた。
ざらりとした味蕾が、舌裏をくすぐる様に撫でて行く。
体中の感覚がその一点にのみ集約されたかのように、見えもしない動きをリアルに伝えて来るのが、居た堪れない。
逃げるように瞼を閉じれば、微かにミハエルが笑ったかのような気配すら感じられる始末だ。
それを引き際としたのか、己を拘束していたミハエルの手が離れる。
慌てて飛び離れるようにして、アルトは身を起こした。
「っは…起きてるなら、起きてると…!」
「そうしたら、姫はキスなんかしてくれないだろ?」
悪びれた様子もなく、寝転がっていた体勢から上体を起こしながら、しれっと返すミハエルに、アルトはぐったりした気分で、ベッド脇の椅子に倒れこむように座り込んだ。
そんなアルトに向かって、ミハエルの冗談のような言葉が続く。
「だいたい、逆ってのも気に入らない」
「…何がだよ?」
「姫を起こすのは王子のキスがセオリーだろ?俺が寝てる側じゃ逆だって言ってるんだ」
自分を恥もなく王子だとのたまうミハエルに、アルトは呆れた顔をし、それから静かに吐息をこぼした。
馬鹿馬鹿しい。
本当にくだらない。
けれど、こんな軽口も、下手をすれば、もう二度と聞く事も叶わなかったのだ。
そう思えば、今なら何でも許せそうな気がする。
「……生きててくれて、良かった」
「そっちもな」
あの状況で、よく四人ともが無事にフロンティアに帰還できたものだと、感心するしか無い。
星そのものがフォールド断層に飲み込まれると言う異様な事態に端を発した、ヴァジュラの一斉襲撃だ。
個々の戦闘機レベルの命運の話では無く、下手をすればフロンティアそのものが消失していた可能性もあり得た。
無論、戦闘で喪われた多くの命の事を思えば、自分達の無事だけを喜ぶわけには行かないが、それでもどうしても胸の奥に、じわりじわりと広がる歓喜を打ち消す事は出来ない。
利己的な感情は、此処にミハエルが無事で居る事を喜び、安堵しているのだ。
ミハエルの顔を見つめながら、アルトがひそりと呟くように、問いかける。
「傷…消えるよな」
あぁこれか、とミハエルが額に巻かれた包帯を確認するように触れながら、頷く。
「このまま自然治癒で問題は無いらしいが、もし傷跡が残っても、整形手術で綺麗に消えるってさ」
「そうか」
安堵したように息をつくアルトに、ミハエルが言う。
「お前は?毎回毎回、ヴァジュラん中に飛び込んでは、特Aランクの検査受けてるらしいが、妙な病気だのにかかって無いだろうな?」
「無い。だいたい、そんな事になってたら、今頃、強制隔離でこんな風にうろうろ出来る筈も無い」
「確かにな」
フロンティアと言う閉鎖された空間では、謎の菌の蔓延など死活問題に他ならない。
生命活動に必要な、清浄な大気と水を維持する事は、宇宙を移動するしかないフロンティアの最優先課題でもあるのだ。
「怪我も無かったのか?」
「無い。今回も検査に引っ張りまわされただけだ」
「ならいいけどな」
告げて、ミハエルは幾分低い位置にあるアルトの顔に手を伸ばし、相も変わらず高い位置で括られている髪をそっと掴み寄せた。
この手が、再びこうして、アルトに触れているその現実を、何と表現すべきなのかは分からない。
「正直、今回はやばいと思った。死ぬ気は無かったけどな、それでも、ヴァジュラと一緒にデフォールドした時には、何か色々と覚悟した気はするよ」
それがどう言ったものだったかは覚えていない。
恐怖も、諦観も、あった。
死ぬものかと言う意地もあった。
妙な郷愁だの、謝意だの。
ほんの数秒の間に、胸を去来した感情を、一言では説明できない。
その後の記憶が無いだけに、余計にそうだ。
「…すまない。俺が、ランカの事をお前達に頼んだから…」
先に逃げだしていれば、少なくとも二人はもう少し穏便にフロンティアへと帰還できたのでは無いのだろうか。
そう可能性を口にするアルトに、ミハエルは首を振る。
「ヴァジュラに捕まったランカちゃんも助けて、あのヴァルキリーも相手して?姫が全部一人で片付けられる筈が無いだろう」
「……」
「お前がランカちゃんを俺たちに委ねたのは、間違った選択じゃない」
あの状況でアルト一人の出来る事には、明らかな限度があった。
だから、アルトの判断は間違っては居ない。己が同じ立場でも、そうしていた。
「全部」
ミハエルの声が、病室に響く。
くん、と軽く引っ張られた髪に吊られて顔を上げれば、ミハエルが表情を緩ませてアルトを見つめている。
「今回の事は全部、俺たちの手に負えない範囲で起こった事ばかりだ。惑星が丸々フォールド断層に呑まれるなんて、誰が想像できた?そこからヴァジュラの大群が押し寄せるなんて、誰が想像できたんだ?俺たちが考えてる以上のレベルで、状況は最悪の形で急変した。…だから、こんな怪我だの何だのは些細な話なんだよ。俺たちは、生き延びた。生きてここに居る。それだけで、充分だ」
言い聞かせるように告げ、ミハエルはアルトの頬へと手を滑らせた。
「こうして、姫に触れられるしな」
そのまま、当然のようにアルトに触れるだけのキスをする。
「…ばっ…お前、どうして、そう…」
赤面しているアルトを見ながら、ミハエルはくつくつと笑う。
アルトは、本当に不意打ちに弱い。
それなりに、あれこれとした筈なのに、こんなお遊びのようなキス一つに、今さら顔色を変えてうろたえるのだ。
戦争とも戦場とも無縁の家で生まれ育っておきながら、どうして、アルトは大人しく守られている側の人間ではいてくれなかったのだろうか。
近しい距離に居られる事を喜びもし、けれど、自分達の立つ瀬の深遠を思い知り絶望もする。
もう、いくら考えても仕方のないことを思い、ミハエルはアルトを見つめる。
「今からでもVFから降りろ、と言いたい所だけどな。もう、それも許されない所まで来てる」
「…ミシェル」
「お前は、無傷で戦闘を生き延びた。戦果も挙げてる。確実な戦力を早急に確保したい状況下で、お前の除隊志願なんてその場で破り捨てられるだけだろうしな」
「…」
SMSと言う組織は当然の事ながら、アルトも戦列から離れる事は出来なくなるだろう。
名を上げれば上げるほど、おそらくは最前へと配される。
使える者を後陣に配して居られるような余裕は、最早、フロンティアには無い。
「だから、何が何でも生き延びろ」
両目を真正面から覗き込んで言うミハエルに、アルトもまた挑むように見返して言う。
「馬鹿。それはこっちの台詞だ。正直、こんなのは二度とごめんだからな」
「分かってる。俺だって、血だらけの姫なんて見たくも無いからな」
そう混ぜ返すように言い、ミハエルは軽く肩を竦める。
こんな言葉を交わした所で、戦場に立つ以上は、自分達の思いも寄らない形で、死がやって来る事は分かって居るのだ。
明日か、明後日か。
ほんの数時間後か。
それでも。
誰にも予測など出来はしないものだからこそ、自分達は、生き残る為の最大限の努力をしなければならない。
守りたいものを守るために。
願いを形にするために。
「「死ぬなよ」」
互いにそう同じ言葉を口にし、誓いの儀式のように、唇を寄せた。