ピエロを演じる賢者

それまでの、どこか静謐にも似た空気を打ち破る一言が、唐突に病室に響く。
「病院服ってのは、そそるな」
「は?お前も同じ格好だろ」
薄緑のそれに、デザイン性も何もあったものでは無く、患者本人が脱ぎ着しやすい、或いは医師や看護士が脱ぎ着させやすいと言う条件しか満たして居ない。
シェリルが営業用だと、呵呵大笑して着こなしていた、下着とどう違うのか不明な衣装などとは比べるべくも無い、実に味気も何も無い服だ。
男性用と女性用に差異は無く、前から見る分にはワンピースと言って差し支えない形状である。
ミハエルの言葉の意味など理解できよう筈も無く、アルトが自分の病院服をつまんで眺めながら、首を捻った。
「俺のが、そそるんじゃなくて、姫がだよ」
「?」
眉間に皺を寄せてまで、意味が分からん、頭大丈夫か、と命一杯訴えてくるアルトに、ミハエルはため息一つ手を伸ばす。
精密検査の際、ファスナーなどの金属に機器が反応しないように、最初からこの服には、余計なものは取り付けられていない。
ボタンが必要な箇所への代替品は勿論、同じ布地で作られた紐だ。
当然ながら、背中を紐で閉じる形式の病院服は、隙間だらけでもある。
つい、と合せの隙間から背中に滑り込んだミハエルの手に、アルトが肩を跳ね上げた。
「ミ…シェル!」
不埒な手を引っぺがして、アルトが迅速にベッドから距離を取る。
妙にすーすーする背中を見れば、既にして上二つの蝶々結びが解かれていた。
「…手の早いヤツめ」
小さく不平を口にしながら、後ろ手で器用に結び直すアルトに、ミハエルがふんと鼻を鳴らす。
「そんな脱がせやすい格好でウロウロしてるのが悪い。こっちは、禁欲生活だってのに」
「皆、条件は同じだ!」
「って事は、姫も禁欲してるわけか」
「な…っ!」
「だよなぁ。散々、俺が仕込んだんだから、三日もお預け喰ったら姫も…」
「あほ!黙れ!喋るな!それ以上、一言だってしゃべるなよ!」
顔を真っ赤にして憤然と怒鳴るアルトを、ミハエルがにやにやと笑みを浮かべながら見つめる。
「ヌいてやろうか?」
「いらん!断る!」
「照れるなって」
「死ね!この馬鹿!」
叩きつけるようにそう言い置いて、アルトが病室を出て行く。
バンっ、と。
消音効果もある筈のラバー製の戸当が、それなりにけたたましい音を立てて、乱雑に閉まった。
「くくくっ」
元気一杯、怒り一杯、と言った所か。
だが、あれくらいの方がアルトには丁度良い。
これから先、本当に些細な事が、どんな命取りになるか分からないのだ。
この芳しくない戦況に思い悩むよりも、他の事に意識を向けている方が良い。それが、自分への怒りであっても、何であっても構わないのだ。
「俺もうかうか寝てられないな」
現状でまともに戦力として使える者は限られているだろう。
いくら健康な者といえども、負傷者の分の埋め合わせで出動が重なれば、ミスも出てくる。
無論、そんな事は自分が心配せずとも、上層部が考えている事だろうが。
「寝るか」
結局は、怪我の治癒にはそれ以外の特効薬は無いのだ。
ミハエルはベッドに転がると、思考の一切を遮断するように、目を閉じた。