その答えはきっと私の中にある

『今もあなたは演じ続けているというのに…親に反発して、パイロットを目指す青年という役を。』

去り際に向けられた兄弟子の言葉が、脳裏を駆け巡っている。
父と自分の間に生じた確執を、ずっと見てきた人の言葉だからこそ、咄嗟に何も言い返せはしなかった。
違う。理由はそれだけでは無いと、分かっている。
いつも自分は、言葉を多く持てないでいるのだ。
言いたい事は山のようにあるのに、いざ言葉にしようと思えば、それは途端に薄っぺらなものになってしまう。
語るよりも演ずる事の方が、余程に己が心情を表しやすいのだと、子供の頃には、既に気づいても居たのだ。
だからこそ、余計に分からなくなる。
行動で示す事を選んだ、それすらも、己が築き上げた役柄の一つなのだと言われてしまえば、自分にはどんな答えも返せはしない。
何から何までが演技なのだろうか。
空に焦がれる自分もまた、偽りなのだとすれば、本当の自分とは結局、何処にあるのだろうか。
『自分』なんてものは、本当はどこにも存在しないのでは無いのか。
空に焦がれた自分が居ないなら、今此処に居る自分は、一体、何だと言うのか。
何もかもが分からなくなる。
「本当の俺…」
「ひーめ」
いつもこちらの思考を途絶させるように、そう呼びかける男を、アルトは視線だけで振り返った。
ミハエルは、アルトのその表情を見て、一瞬だけ動きを止め、それから普段と変わらぬ口調で言葉を向ける。
「何、暗い顔してるんだよ」
向けられた言葉に、アルトは同じような台詞を言ったシェリルを思い出し、自嘲めいた笑みを零し、視線を正面へと戻した。
自分は、普段から相当に陰鬱な顔をしているようだ。
自覚は無いが、分かっては居るつもりだ。
無邪気に笑えた頃のように、自分はあるがままの世界を受け入れられなくなってしまったのだから、もうきっとあの頃のように笑う事は出来ないのだろう。
いつから。
そう、いつからだろうか。
いつ、自分は。
「なぁ」
「何だ?」
「本当の自分って、何だ?」
「哲学か?流行らないぞ」
「俺は、空に焦がれてるフリしてるだけなのか?」
ミハエルは、僅か目を見開きアルトの背中を見つめる。
こちらの言葉を流して、己の問いのみを重ねるアルトの声は、どこか傷ついているようにも見える。
アルトがこんな風に、たまに吐露する『自己』の煩悶は、ミハエルには理解しきれない部分が多い。
「知るかよ、んな事。どっちにしろ、演技にしちゃ筋金入りすぎてるだろ。どこの馬鹿が、空に憧れてるフリだけで、戦場に飛んでくんだよ」
空に憧れているフリなら、航宙科への転科だけで充分だ。
S.M.S小隊に入って、命がけの戦闘に参加までする人間の行動理念が、家を出る為の口実に過ぎない、では本末転倒も良い所だ。
家を出て死にたい、と言うのならば納得は出来るが、宇宙に出たその日に死ぬかも知れない場所を、フリだけで飛べる程、戦場は甘くは無い。
呆れたようなミハエルの言葉に、けれど、アルトはこちらを振り返って、緩く首を振った。
「……そう、出来るかもしれない俺は」
役に没頭できる。
己を全くの別物に摩り替える事など、あまりに容易い。
物心ついた時には、それが当たり前だったのだ。
役になりきる。
その瞬間、己は性別も生きる時代も何もかもを飛び越えて、別個の人格になる事だ。
脚本に描かれたその『人間』の人生を、自分は持て得る限りの技術で表現していたのだ。
指先まで別人で、けれど指先までの僅かな仕草を体現する技術は、早乙女アルトが磨き上げたものだ。
稽古は厳しく、時には殴られもしたし、罵倒もされた。
ただ一度の舞台の為に、それこそ全てを投げ打って稽古をする毎日に、いつしか自分の『形』が分からなくなって、息の吸い方が分からなくなっていた。
父親の芸は凄いと思う。
その為の努力も、賞賛に値すべきものだ。
けれど、歌舞伎が至上のような生き方を、それ以外を顧みない生き方だけは承服できなかった。
あの場所だけで完結してしまう世界など、ある筈がない。
手遊びに折った紙飛行機が、自由に空を飛べるのに、己はあの四角い稽古場からすら、抜け出せもしない事に絶望したのだ。
だから、あの場所から離れた。
そう。
離れただけ、なのだ。
この身は、全て覚えている。
演じることも、演じるに必要な事も、全て。
「俺は……今の俺を『演じる』事が、出来る…たぶん」
頼りない声で、けれど、アルト以外の人間が言えば、笑い話にしか聞こえない台詞を、真剣な顔で口にする。
だから、ミハエルも笑う事も出来ない。
冗談は止せと、一笑に付せない。
早乙女アルトとしての、あの見事な変貌ぶりを知っているからこそ、アルトの言葉には妙な重みがある。
「ちょっと目を離すと、これだ」
ミハエルはため息混じりに、アルトには聞こえぬ程の声で、そう零した。
全くもって『兄弟子』とやらは、余計な事をしてくれる。
アルトの関係者が今まで出てこなかった方が、逆に不思議だったのだが、いきなり出てきた挙句に、こうもあっさりとアルトの心を引きずり戻されては、面白く無い。
一体、何の話をしに来たのかは分からないが、此処まで情緒不安定になっている所を見ると、家絡みで何か言いに来たのは間違いないだろう。
ルカの調べた情報で行くなら、あの男は、次の早乙女嵐蔵の襲名候補の筆頭である。
跡目を捨てろ、と言いに来たのなら、アルトがこうも今の状況に揺らめく理由にならない。
大方、家に戻れとでも言ったついでに、さっきからアルトを暗い方向へと引きずっていると思しき、フリだの演じているだのの台詞を、アルトに言ったのだろう。
それが、余計なのだ。
だいたい一度、放り出した者を今更欲しがるなど、図々しいとしか言い様が無い。
本当に大切なら、手放すべきでは無かったのだ。
手放したものが、二度とこの手には戻らない事があるのだと言う事を、知らないから出来る行動だ。
自分は知っている。
手放したわけでも無いのに、手を離されたわけでは無いのに、まるで奪い去られたかのように、この手に決して戻らないものが、ある事を知っている。
だから、手離す気は無い。
手離してなど、やらない。
「アルト。お前はどうしたいんだ。演技とかそんなのは、どうだって良い。ここにいるお前が、どうしたいんだ?余計なこと、取っ払って、自分のしたい事だけ考えて言え。」
こちらの問いかけに、じっと黙したアルトが、長い沈黙の果てに、ぽつりと零すように告げる。
切望するように、天を見上げて。
「…飛びたい」
空を。
大気を。
風に、乗って。
高く、遠く、彼方へと。
「なら、飛べば良い。言っただろう。好きに飛べって」
「…」
アルトが惑う視線を向けて来る。
望みを肯定される事に、アルトは不慣れであるような気がする。
これをしたい、あれをしたい。
子供が口にするであろう、そう言う些細な望みを、アルトは簡単には口に出来ない環境だったのかも知れない。
「今のお前には、その為の機体があるだろ。まぁ、個人の所有物じゃないけどな、それでもアレは、お前の翼だ」
VF-25。
量産型の機体である以上は、操縦方法を知る者ならば、あれを飛ばす事は出来るだろう。
アルトがヘンリー・ギリアムの代わりに操縦桿を握ったように。
それでもそれは、最低限の能力しか引き出せない。
アルトが操縦桿を握るあの機体は、アルトの能力に合わせての微調整が成され、アルトが戦場を生き抜くのにベストな環境が整えられている。
だからこそ、紛れも無いアルトの機体であり、アルトの翼なのだ。
欲するものは、そこにある。
手を伸ばせば届く場所にある。
迷わず、躊躇わず。
「だから、お前は飛べば良いだけだろ?」
告げれば、アルトは何か考えるかのように暫し黙し、そしてこちらを真っ直ぐに見据えて、どこかぎこちない口調で言う。
「ミハエル。頼んで良いか」
「あ?」



「よりにもよって、こう言う役目を俺に押し付ける辺りが、男心を分かって無いと言うか……お姫様気質と言うか……」
シェリル=ノームの都合良いお膳立てに、今回は感謝しても良いが、微妙に相手との資金力と言うか、S.M.Sをも振り回せる影響力は、憎らしくもある。
己がせいぜい言葉でアルトを浮上させるのが手一杯なのに対して、向こうはアルトの浮上させる機会と環境そのものを用意できるのだ。
あの女は最大級のライバルだ。
そして、そのシェリルには及ばないものの、思わぬ伏兵がすぐ足元に潜んでいる。
ランカ=リー。
上司の妹と言う、『お付き合い出来ない相手ベストテンの堂々1位』が確実な相手なのだが、アルトにはまずそう言う複雑な職場環境と言うものは理解できていない。
と言うよりも、アルト自身がランカの恋心をイマイチどころか欠片も理解して居ないのだから、仕方の無い事なのだろう。
だから、こう言う役目を自分に回せるのだ。
これで、自分に惚れてるっぽい女との約束に行けないから、とりあえずお前会って用件聞いて来い、だったらぶん殴る所だが、当人は約束の場所へと行けない事への罪悪感も、人に頼みごとをする事への罪悪感も持っているのだから、仕方が無い。
何より、アルトに好きにしろ、と言ったのは己自身だ。
可能な限り、後腐れの無い会話をして、ランカが傷つかないようにしてやるしか無いだろう。
アルトと同等くらいには、あの少女は純粋である。
下手を打って傷つけたくも無ければ、その事で彼女とアルトの仲が拗れるのも望ましく無い。
恋敵に丁寧に包んだ塩を送りつけるような真似をする自分は、相当に良い男ではなかろうか。
どうしてこの魅力が、肝心のアルトにはさっぱり伝わらないのかが理解不能だ。
「騎士の愛は、無償の愛だったっけ?」
報われぬと知れぬ愛と知りながら、忠誠を誓い我が身を捧げる。
考えて、ミハエルはふんと、鼻を鳴らした。
「冗談じゃない。帰って来たら、きっちりと見返りは頂くさ」
そんな、殉教者のような真似は出来ようはずも無い。
己は、俗物で良い。
人は所詮、どこまで行っても、己の望みのままにしか生きられないのだ。
誰しもがそうして、生きているのだ。
全てが叶うわけでは無い望みと知っているからこそ、足掻くようにもがくように。
たった一つを、掴み取る為に。
行って来ると、そう告げたアルトが飛び立ったであろう方角を目を眇めて見つめた後、ミハエルはグリフィスパークの丘へと足を進めた。