何故か胸が騒いでいた

美しい星空。
夜風には島独特の空気なのか、どことなく甘い香りが混じって、柔らかな印象を与える。
それでも、此処にある全ては、人が生み出したものだ。
パーセンテージで表示され得るレベルでの、緻密な住環境の微調整がなされた結果の産物だ。
宇宙を旅する巨大な船は、遥か彼方の古き良き時代の地球環境を限りなく忠実に再現しつくしている。
無論の事、幼い頃は自分の立つ大地が船とすら知りもしなかったが、いつの間にか自分はこれが宇宙に浮かぶ船なのだと言う事を学ばされる。
長い長い、人類の歴史と共に。
星々の間を、彷徨う様に進む自分達は、どこか遠くの惑星から見れば、ほんの瞬きの間に消え去る、流れ星のように見えるのかも知れない。
「隙あり」
ペシン、と小気味良い音を立てて、アルトの後頭部が何かで叩かれる。
「…何のつもりだ」
さして痛くも無いが、反射的に頭をさすりながらアルトが振り返れば、その辺りに落ちてたと思しき小枝をポイと放り投げたミハエルが、何故だか呆れたような顔をしてこちらを見ている。
「お前ね。無防備すぎるよ」
「はぁ?」
全く持って意味が分からない。
まさかこんな状況でも、背後の敵は云々を言い出すんじゃないだろうなと警戒していたアルトに、ミハエルが思わぬ言葉を放り投げて来た。
「女に唇奪われるって、どうなの、男として」
「………な…な…な…何で知ってる!?」
あからさまな程に動揺してみせるアルトに、これだから、良いように振り回されるんだと、ミハエルは内心のみでため息を零した。
「そりゃ、ホラ。こーんな見晴らしの良いロケーションなわけだし?見えないわけが無いだろ」
今現在地の離島の状況を悟らせるように、片手を広げてぐるりと巡らせる。
後ろは島の原生林だが、コテージから見える先は、ビーチと海。ヤシの木がせいぜい遮蔽物なくらいで、真正面には視界を遮るものは何も無い。
無論、ミハエルやルカの待機場所はビーチの一画であり、コテージまで一直線、丸見えな場所だ。
ルカの視界にははっきりとは見えなかったようだが、生憎とミハエルの目は意図せずとも、あのワンシーンをくっきりと見せてくれた。
全くもって、油断ならない女王様である。
これだけ大勢のスタッフが居る中で、あの瞬間、偶然にも近辺には殆ど人の目が無かったとは言え、キスをしてのけたのだから。
「…ふ、不可抗力だ」
「まぁ、お前が女王様に太刀打ちできるとは思って無いけどな」
「どう言う意味だよ」
「そのまんまの意味だ。相手は百戦錬磨の銀河の歌姫。お前の少ない人生経験じゃ、まず勝て無いって事だ。現実、そうだろ?」
「……」
アルトが、ぐっと言葉に詰まって居る。
隙をつかれて、翻弄されて。
相手の真意も腹のうちも分からないままに、事を収められてそれで終わりだ。
アルトに出来た事は、シェリルを怒鳴る事くらいである。
歌姫が何を思って、アルトにキスを仕掛けたのか。
その意味を理解できているのは、おそらく自分だけだ。
「キスくらいでどうこう言う程、狭量じゃないけどな。せっかくのシチュエーションなわけだし、隙あらばの心理は良く理解できる」
「何言ってるんだお前」
言葉は理解できても、内容までは理解できなかったのだろう。
だが、本能的に身の危険を察したのか、アルトが顔を強張らせて距離をとろうとするのを、ミハエルが逃す筈も無い。
がっしと二の腕を掴んで、ずいと詰め寄る。
「何って、分かってるだろ?」
「おい!」
つかまれた腕を振り払おうとするアルトに、ミハエルがしぃっと告げる。
「大声出すなよ。人が来るだろ」
「お前が出させるような事をするからだ!」
「はい、静かに静かに」
「ミハ…ぁっ!」
腰に腕を回して、背中から項を抱えるように引き寄せて、唇を合わせて、不慣れな舌を絡めとって、合間の呼吸すら奪い取って。
こうして簡単に流されるくせに、己の元へとは堕ちて来ないのだ。
全て奪ってしまえれば、いっそ楽なのかも知れない。
余計なものに直ぐに気を囚われて、目の前に居る自分の存在なんて忘れ去ってしまうような薄情なこの姫を、浚って閉じ込めてしまおうか。
出来もしない事を考えて、ミハエルは自嘲気味に笑うと、アルトの唇を解放してやる。
篭った吐息を零した後、アルトが己が状況を思い出したかのように、もがくように暴れ出す。
「はなっ…!」
せ、と続く筈の怒声を封じるように、ミハエルはベロリとアルトのうなじを舐め上げた。
「…っ!」
びくりとそれだけで抵抗を止めてしまうアルトの耳に、辿った舌先で囁く。
「静かに。俺は見られても困らないけどね。姫は、困るだろ?」
ぐっと言葉を飲み込むアルトを、ミハエルは宥めるようにうなじに唇を寄せると、触れるだけの口づけを落とした。
「これ以上は、何もしないよ。明日、姫、裸だし。だから、キスだけ」
「もう、しただろっ!」
「足りないよ。全然」
あんなもので、満足できるなら何も困らない。
飢えのような欲望は、触れた所で収まるわけでもないが、触れないからと言って収まるものでは無い。
あてつける意図など歌姫に無かったにしろ、己が所有物に徒に触れられた事で、己の理性の箍は確実に飛んだのだ。
許容は出来ても、寛容にはなれない。
「姫。そんな顔で睨んでも駄目だって」
動揺して、瞳を潤ませて、そんな顔で睨まれても、自分には痛くも痒くも無い。
こんな顔をさせられるのは、自分だけだ。
その優越感が、残りの理性をかろうじて形あるものへと整えて行く。
「キスだけだから、ほら。」
「…信用ならん」
「じゃあ、その通りにしても良いけど?」
この体勢からアルトが抜け出すのは、至難の技だ。
無論の事、騒動になるのは目に見えており、そうなれば、アルトが嫌う『人目』を集める事に繋がる。
「んの、卑怯者!」
乱暴な足が膝蹴りを繰り出すのを、パン、と一瞬だけ離した左手で抑える。
そのまま無防備な左足に払いを掛ければ、アルトの上体がよろめく、
当然ながら、ミハエルがそんなチャンスを逃す必要性も無く、アルトの体を己が腕の中に抱え込んだ。
「……っ!」
「隙ありって言っただろ?最初に」
押し倒して、あの場で事に及ばなかった己を褒めて欲しいくらいである。
そんな事を言い出せば、全力で逃亡を図るのは分かりきっている手前、ミハエルは何も言わず、アルトの見せた隙を逃さずに唇を合わせた。