夢の形

高度2000m。
覆る事の無いその数値で保たれた低い空が嫌いだった。
限界は超えられないのだと思い知らされるようで。
高く、高く飛び上がって、けれどその先に超えてはならぬ、否、人の身一つでは決して越えられぬ『壁』が歴然と存在する。
それがたまらなく嫌だった。
まるで自分の家のようで。
伝統と歴史で雁字搦めの世界を、抜け出す事がまるで罪悪のように諭される、そんな場所が苦しくて仕方が無かった。
舞うのが苦しくなって、役を演じるのが苦しくなって、あの壁を飛び越えられるモノを、求めた。
求めたけれど、自分はそれを手にして、何かが変わったのだろうか。
あの境界線を飛び越えて、敵を倒して。
けれど、それは誰かに賢しらに語るもので無い事も承知している。
だと言うのに、語ったつもりの無い己の背景は、あまりに多くに知られすぎていて。
「アールートーひーめ!」
その典型例とでも言うべきか、過去己の演じた舞台を見ている男は、己の名に『姫』と言う美称をつけて呼ぶ。
最早2年目に突入し広がりきってしまったその呼び方を、変える気も訂正する気もなさそうな男に、アルトは無駄な労力を費やす事を諦めた。
「何だよ」
「お。姫って認めるのか?」
振り返った先で、S.M.Sのジャケット姿でにやにやと笑うミハエルへと、アルトは静かな視線を向けた。
普段ならば、そんな返答にきっと怒りの一つも覚えると言うのに、今ばかりは奇妙に心が凪いでいて、何の感情も湧きあがって来ない。
「…王子でも姫でも別に何でも構わない。好きに呼べば良い」
どうせ、大した事の無い名だ。
引き継ぐべき名を拒んだ己が、今さら何を名乗ろうとも、誰も、認めはしないのだ。
己が与えられた名など、引き継がなかった名の前では、霞み消えてしまうものに過ぎない。
あの名を超えるだけの何かを手にしない限りは、早乙女から逃げただけの、己の過去すら超えられない人間のままで終わってしまう。
いつにない反応に、ミハエルはふと真面目な顔をして、アルトの肩をつかんで振り向かせた。
「…どうした?」
「どうもしない」
そっけなく返されたその言葉は、いつもと同じようで、けれど、いつもとは違う。
所詮、人の感情など他人には要因の分からぬものだけに、対処は難しく、理解するにも限度がある。
だがそれでも、アルトの場合は、余人より簡単に原因を察する事ができる分だけマシなのだろう。
どう考えた所で、あの家の跡継ぎと目されていたアルトが、美星学園の航宙科などに居る時点で、気づかないわけが無い。
家系とは、方向性の全く異なる進路を選んだアルトと、その家族や一門と上手く行って居る、などとは誰も思わないだろう。
何より、アルトは家業の話と、家族の話を、酷く嫌う。
嫌う、と言うよりも、触れられる事を恐れて居るような気がする。
航宙科に転科してから1年。家族と別離して1年。
S.M.Sに所属して一ヶ月弱。
まだまだ、処理しきれぬ感情ばかりなのだろう。
「アルト」
「何だ」
淡々と返される応えと、感情の伺えぬ眼。
らしくない。
「お前は姫だけど、アルトだからな」
「…意味が分からん」
ミハエルの繰り言に、アルトが胡乱げな視線を向けた。
「だって俺、お前以外を姫だなんて呼ぶ気は無いぜ」
「……はぁ?」
「ボンキュッボーンなお姉さんが現れたって、俺の姫はお前だけなんだから」
「…何でそこでそんなのと比べられるんだ」
眉間に皺を寄せるアルトに、こんな顔でもやっぱり美人なんだなとミハエルは感心する。
色々な『女性』を見てきたつもりだが、アルトの顔だけは別格で、ミハエルにとっては何かと比較する手立てを持たないものである。
他に口に出来る相違点といえば、一般的な女性の身体的特徴くらいなものだ。
「ものの例えだろ。とにかく、俺にとって姫はお前なの。美人の憂い顔は嫌いじゃないけど、お前にゃ似合わないよ」
「悪かったな。考え事の似合わない間抜け面で」
二度とこいつの前で愚痴めいたものを口にするものかと、音を立てそうな勢いでアルトが身を翻した。
長い髪が、結い紐とのコントラストを描いて、揺れる。
そのまま振り返りもせずに歩き出すアルトの背中を、ミハエルは一瞬、呆然と見送りかけて、はっと我に返った。
「アルト!こら姫!待てって!」
どこをどう聞いたら、そういう結論に落ち着くのかと、盛大に問い質したい。
「姫姫呼ぶな!」
「姫を姫って言って何が悪い!」
「誰が姫だ!」
だんだん良く分からない掛け合いを始めている二人の声が、ハンガーに響き渡っている。
作業をしていた整備班が、スパナやらを片手に、何だ何だと面白そうに若造二人を伺っている姿が、ちらほらとうかがえた。
「あの万年馬鹿ップルみたいなのは何とかならないのか?」
「ならないでしょうねー。ずっとあぁですから」
オズマのげんなりとした声での問いかけに、携帯でカチカチとメールを作成しながら、ルカが何の感慨も無さそうに口にする。
「ずっと!?」
「そうですよ。だから隊長も慣れて下さいね。あの二人は、どこでもずっとあんな感じです」
ずっと、だ。
そして、これからも、そうであって欲しいと願うのだ。
平穏とは程遠い場所へと、飛び立ってしまった自分達だからこそ、変わらず笑っていられる日常を、大切にしていたい。
誰かを好きになったり、諦められない夢を追いかけたり。
そうして、そんな事が当たり前に繰り返せるように、自分達は戦いを選んだ。
女好きじゃなかったのか?顔か?顔なのか?などと、何やらブツブツと呟いて立ち去るオズマに苦笑いを浮かべると、ルカはアルト達へと初めて視線を向ける。
ミハエルにじゃれつかれたアルトが渾身の力で抵抗し、心底嫌そうな声で喚いている。
そのアルトからは見えぬ角度で浮かべられる、ミハエルの何とも満ち足りた笑みに、ごちそうさまです、とルカは内心で両手を合わせると、メールの送信ボタンを押した。