過去から連なる現実

PCに向かって、カタカタとキィボードを操作していたミハエルの背後で、ごろごろとベッドに転がって居るルームメイトは、何やら思案にくれた顔をしたまま、時折ひそかなため息を零している。
いい加減、うっとうしい、とでも言うべきかと思った矢先に、ため息の代わりにようやく声が零れ落ちた。
「いっそ、過去なんて全部、消えてしまえば良いと思う」
ベッドに寝転がったまま、発せられたあまりにも唐突なそれに、ミハエルはキィボードを操作する手を止めると、作りかけのレポートへと一先ず保存をかけた。
表情を見ずとも相手の声音で、片手間に聞き流すべき会話かどうかの判別くらいは、つくつもりだ。
外見を裏切って、大雑把で実に男らしい気質のアルトではあるが、ふとした瞬間に『脆さ』を垣間見せる。
「唐突だな。過去って、お前の子供の頃か?」
こちらの問いかけに、アルトが二段ベッドの天井を見上げた体勢のまま、ぼそぼそと言葉を続ける。
「演劇科の後輩…だろうな、たぶん。映像見たヤツにさ、聞かれた。どうして辞めたんですか?って」
アルトが舞台で艶やかに舞う姿は、『料金』を払えば見られると言う、一つの価値ある物になっている。
芸術的文化的価値、と言う代物だ。
「皆が皆、俺を知ってるとか、そんな風に自惚れてるわけじゃない。ただ、俺は、俺自身が切り捨てたものが、今の俺自身よりも貴重なものとして扱われている事が、酷く、辛い」
アルトがいずれは引き継ぐべきだった名。
それは単なる形式だけでなく、間違いなくその才も、名を受け継ぐに足る技量も、全てが備わっていたのだ。
だからこそ、かつてのアルトの舞台は、今でも著作権なるものが発生し、そこに金銭価値が付属する代物になっている。
今の、ただの学生のアルトを、過去のアルトが押し潰そうとする。
お前の価値は、そこには無く、かつて己が放り出したその場所にこそあるのだと、そう物語るかのように。
「もっと酷い過去を経験してて、そう言うのを本当に忘れたいと思ってる人からして見れば、…俺なんかのは単なる贅沢な望みだって言われるのも分かってる」
実際、贅沢だと、思う。
衣食住の何を困ったわけでも無い。
手酷い暴力にさらされた傷があるわけでもない。
己の行動は、我侭で、贅沢だと、頭では分かっていても、苦しいものは苦しい。
抜け出したつもりでも、抜け出せて居ない。
上手く今を生きているつもりでも、こんな風に自分はいつだって、簡単に平常心を欠く。
情けない。悔しい。
感情を上手く処理も出来ずに、こんな風に吐露するしか無い弱さも、たまらなく惨めになる。
深くため息を零し口を閉ざしたアルトに、ミハエルは眼鏡を外しテーブルの上に置いた。
「過去を無かった事にしたいなんて、誰だって思う事さ。思うだけなら、別にそんなのは誰に責められる事でもないだろ。俺だってあるしな」
「お前でも?」
身を起こし、不思議そうに瞬きをして問い返すアルトに、一体自分はどんな楽観的な人間だと思われているのかと内心自嘲しながらも、ミハエルは頷いて見せた。
「そりゃあるさ。人には知られたくない過去の一つや二つや…まぁ十くらいは普通にあるもんだろ」
「へぇ?」
一つ二つと、指折り数えていた手を止めて、両手を広げて見せたミハエルに、アルトは硬かった表情を崩して軽く笑う。
「でもさ」
「うん?」
「俺は、お前と出会った過去を、無かった事にはしたくない」
立ち上がり、アルトのベッドのすぐ真横まで進んでアルトを見下ろす。
「ミハエル?」
少しだけ、惑いを含んだアルトの声に構わず、ミハエルは続ける。
「あれは間違いなく初恋だよ。こんな綺麗な子が、この世に居るのかって心底感心したんだ。まぁそれが男だってのには驚いたけど、俺の美的感覚は至極全うであったわけだし、それがすっぴんでも充分な美人に育って、おまけに泣いたりすねたり怒ったりイイ顔まで晒してくれるって言うんだ。こんな贅沢は無い」
髪を一房つかまれて、レンズの遮蔽が無い素の瞳で覗き込まれる。
レンズ一枚消えただけで、そこには紛れも無くミハエルが引き継いだ異種の、獰猛な気配が浮かび上がっている。
普段は意識しない、悟らせもしないモノが。
「ミハエル」
「これが俺だけのものになるんだったら、俺はお前がどんなに過去を消したいって思おうとも、許さない」
するりと髪から手を離したミハエルの手が、顎を捉える。
許さないと、そう強く断じる男に、アルトの本能が咄嗟に逃げを打つ。
だがその機先を制するように、ミハエルがアルトを押さえ込んだ。
「ミハエル!」
「俺はお前を逃してなんかやらない」
「そんな話じゃなくて…」
「過去を捨てたいって言うのは、そう言う事だアルト」
真上から見下ろせば、驚きに目を見開いた双眸とかち合う。
過去がなければ今は無い。
ありきたりな言葉ではあるが、それは真実なのだ。
だからこそ、過去を望まぬアルトが居る事も理解はできるが、認めはしない。
「お前は、俺のものだよ」
「俺は、俺自身のものだっ!」
誇り高いプライドは嫌いでは無い。追い詰めても追い込まれても、決して曲がらずに意思を貫く双眸も、たまらなく好きだ。
「そういうのも含めて俺のもの」
「はぁっ!?」
人の告白に、それはもう何言ってるんだこの馬鹿、とでも言いたげな表情と声を返すアルトに、ミハエルはやれやれとため息を零す。
「あぁもう、色気の欠片も無いなぁ」
「あってたまるかんなもんっ!って言うか、いい加減どけっ!」
「はいはいお姫様、そろそろ口を閉じましょうね」
「ミハっ…んっ……!」
何とか逃れようと暴れるアルトを抑えこんだまま、ミハエルはその唇に噛み付くようにキスをした。
零れる吐息も声すらも、己のものにしてしまいたくて。
過去や消せぬものに心割くアルトの意識すらも。
もがく手が己の肩に無意識に縋りつくまで、ミハエルはただアルトにキスを送り続けた。